平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
可睡斎の眠りと火伏せ
可睡ゆりの園の帰り、せっかくだから可睡斎にお参りする。寺名で「眠るべし」とはまた不思議なネーミングである。
寺名の謂れについては、可睡斎のHPに書いてある。11代目の住職、仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚は、幼い徳川家康とその父を戦乱の中から救い出しかくまった。浜松城主になった家康公は、和尚を招いて旧恩を謝した。その席上でコクリコクリと無心にいねむりする和尚を見て、徳川家康はにっこり笑い、「和尚、我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚、眠るべし」と申された。それ以来、和尚は「可睡和尚」と称せられ、後に寺号も「可睡斎」と改めたという。和尚の時代に、家康公の帰依を受けて発展した。
「可睡和尚」とはユーモラスな話で、新首相も「可睡首相」と言われないように願いたいものである。夜、寝られないと言って辞めた首相もいたから、所構わず寝られる方が大物かもしれないが。境内に「座禅と眠り」というテーマの講演会案内が出ていた。可睡斎は眠りに縁のあるお寺で、座禅をすると良い眠りが得られるようになるという。夜寝られないのは「うつ」の前兆だといわれるが、寝られないお父さん方は一度訪れるのも良いかもしれない。ブログのおかげで、よく寝られる自分には今のところ縁は無い。
可睡斎のもう一つの顔は、古来より火伏せの神様として崇められて全国津々浦々に奉祀されている秋葉山の秋葉総本殿三尺坊大権現の道場があることである。1873年(明治6年)の神仏分離に伴い、秋葉山のお寺の部分の三尺坊大権現が可睡斎に遷座され、以後、火伏せの寺となった。
我が故郷の兵庫県北部の町でも、最近まで一部の地域で「秋葉講」が残っていた。皆んなでお金を出し合って、毎年代表が秋葉山へ皆んなの代参をする。何年かに一回、自分にも回ってきて、その時に代参を兼て物見遊山の旅行が出来るわけである。代参を出来るだけ早く済ませて、物見遊山に時間を割くのが人情である。山奥の秋葉山へは道路が良くなった現在でも、ずいぶん時間が掛かる。だから、東海道線袋井駅からそんなに遠くない可睡斎で代参は済ませてしまうことが多かったという。
(阿形烏天狗像と吽形天狗像)
本堂の左側を奥へ進んだ先に、秋葉総本殿三尺坊大権現の御真殿がある。進むと左右に幟が何本も立ち、左に阿形の烏天狗、右に吽(うん)形の天狗の像が立っている。間の石段を登った先に御真殿がある。拡声器を通して般若心経を上げる複数の僧の声が荒々しく聞こえて来た。その内、鳴り物が激しく打たれて何とも賑やかな勤行になった。山伏の系統の行者なのだろうか。火伏せの行をしているのであろう。打ち続く僧の声に背中を押されるように、可睡斎を後にした。
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