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今年も「考古学と歴史」を受講

(曽根辰雄講師、遮光器土偶のレプリカも見える)

土曜日の午後、今年度の金谷宿大学「島田金谷の考古学と歴史」の第1回を受講に行った。今年は新しい受講者が増えて24名となった。講師の曽根辰雄氏は小学校教員で59歳、月に一回金谷宿大学の文学講座(午前中)と歴史講座(午後)に来るのが生きがいだと話す。

自分は3年目になるが、先史時代から現代までのことをテーマを決めて話してもらうが、やむをえない部分もあるが、どうしても前の年とテーマが重複してしまう。

今回もテーマが「東鎌塚原遺跡から宮の段古墳群・天王山古墳群へ」副題として「古代びとの生活誌をめぐって」で、先史の時代は毎年同じようなテーマである。今日は新しく聞いたと思われる幾つかを取り上げて講座内容の書き込みとしたい。

川根本町千頭の旧石器時代の高千山遺跡からは、石器を打ち欠いている途中の母岩とも言うべき石が出土している。頁岩は打ち欠くと薄い刃のように欠ける特徴があって、石器の製作によく利用される。

旧石器時代の出土する石器の中で、細石器と呼ばれる小さなかけらは木に一列に埋め込まれて鋸のように使われたと思われる。

川根本町上長尾の縄文後期の遺跡からは遮光器土偶が一体出土されている。東北地方でよく出土するものだが、この地方では珍しく、現在は東京国立博物館で保管されている。講師は遮光器土偶のレプリカを持参して見せてくれた。これは墳墓に埋められた埴輪ではなく、住宅近くから出土している。どこかに欠けた部分があり、人の悪い部分を欠いて、快癒を祈る、人型のような役割であったと推測される。

大井川右岸、島田市湯日の縄文時代の遺跡からは、この地域では唯一の六角形の竪穴住居跡(通常、円形か方形)が見つかっている。この形の住居跡は長野県に多く見られ、この地が長野県と何らかの交流が当時もあったことが想像される。

墳墓の作り方としては、縄文時代は土坑墓、弥生時代は方形周溝墓、古墳時代に入って古墳が作られる。卑弥呼の3世紀半ばは微妙な時代で、文献にも高塚と書かれていて、古墳なのかどうかがわからない。

前方後円墳は日本独特の墳墓形式とされる。ヤマト王権が中央から派遣された地方官人などに特別に許したものではないかと考えられる。韓国のかつて百済のあった地域に前方後円墳が10基ほど見つかり、ヤマト政権の現地駐在官人の墳墓ではないかと想定されている。

雑駁な記録であるが、こんな話が印象に残った。

現在、鹿児島のホテルにいる。この後、ワールドカップの日本対カメルーンを見る。最後まで見れば夜更かしになるが、何とかそこまで引き付けられる試合を期待したい。
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