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明治の大井川川越し その2

(大井川谷口橋辺り)

(前回の続き)
明治三年の暮れの27日、島田御役所より船方元締佐塚佐一郎、川崎源五郎、右両人元締役、同手代大石林八、狩野安太郎、川合小才次、中村源三郎、右六人へ諸役の義、仰せ付けられ、御請け申し候。との記事がある。いよいよ東海道本道にも船渡しを認める準備が始まったのであろう。そのための船方元締や手代の任命なのだろう。

正月元日より川方故障、川越一同惣代川会所へ願い出る。もっとも去る午年の暮れ、米、金貸付けなどこれ無きに付き、右は諸勘定差引見届けたく願い出る。もっとも川越一同惣代に仲田源蔵殿頼まれ、川役人共に諸勘定致し候ところ、川庄屋六人の内壱人贔屓などこれ有るに付き、取扱人両町地方役両三人にて取扱に相成り、河村惣右衛門殿より金八百両出金に相成り、川越人数へ割り渡し申し候。三月八日故障漸々相治り申し候。

※「故障」- 異議、苦情。

明治四年になって、川方から苦情が上がり、川会所へ持ち込んだ。どんな問題だったかは判らないが、川庄屋の一人にえこひいきがあったようで、お金で解決した。その際、河村惣右衛門という人が金八百両のお金を出している。河村氏が贔屓した本人なのか、どうかははっきりしない。揉めごとは船渡しへの移行に絡んで起きたのかもしれない。解決を急いだ様子もうかがえる。

正月頃、島田御役所より仲田源蔵殿義も船方手代仰せつけられ、御請け印を仕り候。

     御書付
申し渡しの義、これ有るに付き、明後晦日、朝四つ時罷り出ずべきもの也。
  正月二十八日 島田御役所       
     金谷宿 松浦幸蔵
     差添人 下嶋弥八郎
右御役所へ罷り出で候ところ、船方手代仰せ付けられ候に付き、則ち御請け印形を差上げ申し候。


船方手代の追加があったようで、筆者(松浦幸蔵氏)も任命を受けている。

二月朔日より再勤仕り候。
    船頭人数  四拾人  弐拾人金谷町  弐拾人河原町
右は元締手代船頭の取極の義は両町より人数半々に人選致すべき事。両町地方へ替えさせられ、議定書致し候。

※「地方(じかた)」- 江戸時代、町方に対して、農村のこと。転じて、農村における民政一般をいう。

ここで「再勤」というのは、川会所の職は一度任を解かれたのであろう。

当五月朔日より
東京駅逓御役所より靜岡様へ仰せ渡され、即、島田郡政御役所にて両宿川方役人共へ仰せ渡され、御請け仕り候。当大井川渡船を御開き相成り申し候。


そしてついに明治4年5月1日より渡船が開かれ、大井川の徒歩渡りの制度は終焉を迎えた。(続く)
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