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明治の大井川川越し その3

(大井川の本流、川越し地よりもかなり下流)

(昨日の続き)
大井川渡船が開かれて、同時にいくつか御触れが出ているが、「歳代記」にはそれらも記録されている。

東京駅逓御役所より
右は大井川会所へ御書下げ左の通り。

※「右」は「東京駅逓御役所」で「左」は以下の御触れを指している。

東海道島田金谷の間、大井川は従前歩行越のところ、旅人難渋少なからずに付き、別紙の通り、当分相定められ候条、この旨、相心得うべき事。
辛未四月   太政官

※「辛未」-明治4年

大井川渡船は当分左の通り相定め候条、水主のもの船賃の外、酒手等乞い請け候儀、これ無き様、地方(じかた)に於いて取締り致すべき事。

※「水主」-ふなのり、船頭。

船賃の儀、当五月朔日より賃銭表の通り相定め候事。
一、行幸、行啓、その余、非常出兵などの節は別段の御所置これ有るべき事。
一、並びに出船は暁六つ時より夕六つ時まで限るべき事。
但し、急用の者は刻限に拘らず出船致すべし。もっとも夕六つ時より暁六つ時まではすべて定賃銭へ五割増の事。
一、常水弐尺五寸へ三尺の増水にて馬越し相留め、四尺増より通船相成らず候事。
右の通り相定め候事。
辛未四月     民部省

※「行幸」は天皇の外出、「行啓」は太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫の外出。
※「暁六つ時より夕六つ時まで」-午前6時より午後6時まで

例外として「非常出兵」が挙げられている。明治になって「出陣」から「出兵」に変わっている。

大井川賃銭
一、銭百弐拾四文   乗合     壱人
一、銭三百七拾弐文  乗馬     壱疋 但し口附共
一、銭五百文     長棒駕籠   壱挺
一、銭三百七拾弐文  引戸駕籠   壱挺
一、銭弐百四拾八文  垂・山駕籠  壱挺  
一、銭百八拾四文   両掛・分持共 壱荷
一、銭六百弐拾四文  大長持    壱棹
一、銭三百七拾弐文  長持     壱棹 
右の通り相定め候事
辛未四月     驛逓司

※「両掛」-挟箱や小形のつづらを棒の両端に掛け肩に担いだもの。
※「分持」-1つの荷を二人で分けて持つこと。
※「驛逓司」-明治初期、交通・通信をつかさどった官庁。

両所川越の救済の義は萩間村または日坂御林済美地より開墾地を下され、極く難渋の者は右地所へ引越し申上げ、このものには農具料として金七両ずつ御手当下され、それぞれ元手として外稼ぎ仕り候。


これは渡船で職を失う川越人足の救済措置を記録したものである。農業に転業を勧めたものである。川越人足たちが、その後、どうなったのか、興味を引かれるが、以後触れられた記事はない。

宿に人力車を御開きに相成り。
東海道ではそれまで交通手段として車は許されていなかった。人力車は初めての車である。渡船の開始と同時というのが意味がありそうである。(続く)
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