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田中藩藩校「日知舘」と熊沢維興

(金曜の雨は富士山では雪だった)

土曜日、川根温泉から戻って、日向ぼこ書斎で2時間ほど仮眠を取り、午後、金谷宿大学の「島田金谷の考古学と歴史」第8回講座に出掛けた。今日のテーマは日知舘から島田・伊太学校へ -ふるさと文明開化」である。日向ぼこ書斎での仮眠が悪かったのか、昨日の夜更かしが応えたのか、いま一つ気分がすぐれないままの出席になった。数分居眠りが出たかもしれない。

講義の枕の話に、今、歴史の旅好きの間で静かに流行っているものに、「掃苔(そうたい)」と「近代化遺産」がある。「掃苔」は有名無名の人々のお墓を巡ることである。墓石の文字を見るために墓石に付いた苔を掃除するところから、こんな風に呼ばれている。昔なら拓本を取ったり、今でも墓碑銘などを写真に撮ってきて解読したりする。そんな趣味を最初に始めたのは永井荷風だといわれる。荷風は晩年、東京の街を歩き巡って暮らした。「近代化遺産」は明治以降の近代化によって建てられた西洋風建築物や、土木建造物などに関心を懐いて、見て回ろうというものである。文化遺産として登録、未登録を問わない。むしろ未登録のものを発見する喜びの方が大きいのだろう。どちらもそんなにお金を掛けないで楽しむことが出来る。

本題に戻って、江戸時代に各藩が一斉に藩校を設けるようになったのは、19世紀になってからである。1790年に「寛政異学の禁」により、朱子学以外の学派が禁止された。林家の私塾であった湯島聖堂は、寛政9年(1797)に幕府の官立の昌平坂学問所となった。昌平坂学問所がいわば各藩校の教員養成機関になって各藩に次々に藩校が建てられた。

近辺の各藩に設立された藩校には次のようなものがある。
1802年に掛川藩主太田資愛が肥後の儒者松崎慊堂(こうどう)を招き、学問所、北門書院と呼ばれたが、1844年徳造書院と名付けられた。
1845年横須賀藩主西尾忠固が領内の国学者八木美穂(よしほ)を教授長に任じ、漢学、国学、歌道を教えた。
1837年、譜代大名の田中藩では藩主本多正寛が城内に設立し、日知(にっち)舘と称した。教科内容は和、漢、医、算、書、習礼、弓馬、槍、剣、砲、棒、対術があり、教官に石井縄斎(じょうさい)、熊沢維興(これおき)などがあたった。

※熊沢維興(1791~1854)は江戸市ヶ谷に生まれ、「市谷」と号した。父は田中藩の近習役で、江戸詰めであったが、1800年田中に移る。維興は1829年昌平坂学問所を終え、漢学、国学に通じ、特に天皇の山陵に関心を懐き、讃岐金比羅参りを口実に、山城、大和の山陵を訪ね、「御陵私記」2巻を著している。その功績から、死後50数年も経って、1911年に従五位に叙せられた。(熊沢維興の「御陵私記」は読んでみたいと思う。後日詳しく調べてみよう。)

この後、講義は民衆のための寺子屋や私塾の話に及び、明治になって学制へと繋がっていく。日を改めて書き継ぐことにする。
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