平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「旗指」という地名
午後、靜岡に健保の理事会があって出掛けた。車で国道1号線バイパスを東京方面に向かって、新大井川橋を渡ると向谷インター、旗指インター、野田インターとインターチェンジが続く。中で昔から気になっていたインター名に「旗指」がある。「はっさし」と読むが、どういういわれのある地名なのだろう。「旗指」を辞書で引くと、戦場で、主人の旗を持って供奉する武士。旗持ち。または 「旗指物」そのものを示すとあった。
確か、年末に旗指インターを通って、案内板を見つけ、車を止めて写真を撮っていた。おそらく「旗指」の謂れが書いてあったと思って取り出した。
史跡 権現森
永禄十一年十二月(1568)の末ごろより天正年間(1572)にかけ、徳川・武田の両軍は、千葉山智満寺を中心に、猛烈な兵火を交え、この付近の社殿・仏閣多数を廃墟と化した。
そのころ徳川の軍勢は、この旗指の地に陣営を布き、幾本もの旗幟を風に靡かせて、武田の軍勢に対抗した。家康公は、この山腹の小高い丘の森陰に本営を置いて全軍を指揮した。家康公は肌身離さず奉持していた守護神を、今の三寸神社に奉納して戦勝の祈願をしたと伝えられている。
当時、大井川の流れの一筋が、向谷水神社の山鼻から伊太口を洗い、三寸神社前から、旗指の山裾を浸し、大沢谷川と合流して、大きな淀となって東へ流れていた。家康公はこの戦勝祈願のために、桶舟を造り、これに乗って往復したという。斯様なことから天下平定の後、この地を「権現森」と称して保存されてきた。昭和の終戦後まで樹齢数百年という樅の大木が存在したが、惜しくも落雷で焼失した。現在その所在地は、この真上の国一バイパスの用地となっている。
平成四年二月吉日 旗指郷土愛好会
徳川家康と武田信玄は今川領を分割支配するに際して、大井川を境にして東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領とする密約を結んでいた。しかし武田信玄が約束を破って、永禄11年(1569)、重臣の秋山信友に信濃から遠江へ侵攻させた。この時は失敗に終ったが、その後信玄と家康は敵対関係となった。
案内板に書かれたのと同じ時代である。戦いは遠江だけではなくて駿河でも起っていた。駿河の武田軍はどこを通って来たものだろう。南アルプスという山塊があるから、甲斐から安倍峠を越えて安倍川に沿って駿河に入ったと考えるのが妥当だろうと思う。まだ読んだ訳ではないが、浅羽克典著「安倍七騎」という小説がある。安倍川沿いに住み、武田方に組した武将たちの物語である。当然彼らの手助けも受けながら駿河に進出したものであろう。
この辺りの状況ももっと詳しく調べてみたい。
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