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駿河土産 34 家康霊屋結構の事

(庭のムラサキシキブの花)

台風8号が沖縄宮古島方面に迫っている。910ヘクトパスカル、最大風速55メートルの伊勢湾台風級の台風だという。宮古島地方には「暴風・波浪特別警報」という、聞き慣れない警報が発令された。いよいよ、日本近海も手荒い気候になって来た。

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(50)家康霊屋結構の事
一 権現様、駿府に御座遊ばされ候節、御不例の砌、板倉内膳正へ御身後の義どもを仰せ出され候て、我ら廟所を将軍より申し付けらるに於いては、始祖の廟なれば、この義を以って、定めて作事などをも結構に申し付けらるべく候えども、それは無用の事に候。我ら子孫に至り、代々共に始祖の廟に増(まさ)らぬ様に、と有る勘弁のためにも、これ有り候間、その心得を以って、軽き宮居に致し置かれ候様にとの上意に付、御他界以後、江戸に於いて、将軍様へその段内膳正申され候処、御もっともなる仰せにはこれ有り候えども、余りに軽き御宮居と有るは、如何なれば、大概結構なる御宮居に相見え候如く、御普請掛りの衆中へ申し談じ候様に、と仰せ出られ、最前の御宮御建立出来候となり。
※ 板倉内膳正(いたくらないぜんのかみ)- 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。三河深溝藩主。家康の近習出頭人として仕えた。
※ 身後(しんご)- 死んだのち。死後。没後。
※ 結構に(けっこうに)- すぐれていて欠点がないように。
※ 勘弁(かんべん)-やりくりすること。算段。
※ 最前(さいぜん)- いちばん先。いちばん前。


その後、寛永三年に至り、御父子様とも御上洛遊ばされ候御留守に於いて、御台様御病気に付かせられ候段、京都へ相聞け候に付、駿河大納言忠長卿、御看病のため、御暇にて御下向の処、終に御全快御座無く、九月十五日薨御遊ばされ候に付、増上寺に於いて御法事などの儀、忠長卿御差図遊ばされ候内に、御父子様とも還御遊ばされ、御廟所、御霊屋など御普請の儀ともに、忠長卿御請懸りと罷り成り候に付、思し召しのまま、結構に御普請出来仕り候となり。
※ 御父子様とも御上洛 - 寛永三年七月に、後水尾天皇の二条城行幸のために、将軍家光、大御所秀忠ともに上洛した。
※ 御台様(みだいさま)- 御台所、将軍正室として大奥一の立場にあった。徳川秀忠の正室、江(ごう)に最初に与えられた。ここでは、その二代将軍秀忠の妻、江を指す。崇源院。織豊~江戸時代前期、浅井長政と小谷 (お市)の方の三女。
※ 駿河大納言忠長卿 - 徳川秀忠の三男、母は江。駿河国・遠江国・甲斐国で五十五万石を領有するも、後に改易。配流地の高崎(上野国)で自害。
※ 御暇にて御下向 - 忠長も後水尾天皇の二条城行幸に同行していた。
※ 薨御(こうぎょ)- 親王・女院・摂政・関白・大臣の死去すること。


同九年正月廿四日、台徳院様御他界遊ばされ候節、御霊屋御普請などの儀、崇源院様の御霊屋よりは見増(まさ)り候様に仕立て申すべき旨、上意に付、只今のごとくなる御仏殿出来候となり。この御仏殿に見合候えば、日光山に御建遊ばされたる東照宮の御社は、殊の外手浅く相見え候に付、御宮御建て直しとは御座なく、御修覆とこれ有る趣にて、惣奉行の儀は秋元但馬守へ仰せ付けられ、御宮御修覆に付いての御入用は、御いと(厭)い御座なく候間、随分と手を込め、台徳院様御霊屋に見増し候様にとの仰せ出されこれ有り。さるに依って、右修覆に付いての御入用、七拾萬両の由なり。
※ 秋元但馬守 - 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。館林藩秋元家二代。家康の近習出頭人として仕え、日光東照宮の造営で総奉行を務めた。

右の次第にこれ有り候えば、御代々御霊屋の結構にこれ有る、その始めは駿河大納言殿、御物好きより起りたる事の由なり。
※ 物好き(ものずき)- 物事に趣向を凝らすこと。また、そのものや、そのさま。

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