河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2074- サロメ、新国立劇場、エッティンガー、東響、2016.3.12

2016-03-12 23:12:01 | オペラ

2016年3月12日(土) 2:00-3:55pm オペラパレス、新国立劇場、初台

新国立劇場プレゼンツ
シュトラウス 作曲
アウグスト・エヴァーディンク プロダクション

サロメ   98′

キャスト(in order of appearance)
1.ナラボート、 望月哲也(T)
1.ヘロディアスの小姓、 加納悦子(S)
2.サロメ、 カミッラ・ニールント(S)
3.ヨハナーン、 グリア・グリムスレイ(BsBr)
4.ヘロデ、 クリスティアン・フランツ(T)
4.ヘロディアス、 ハンナ・シュヴァルツ(Ms)

ダン・エッティンガー 指揮 東京交響楽団


概ね初日2016.3.6と同じ感想で、素晴らしいものは何度見ても素晴らしい。素晴らしいというより凄いという実感ですね。

ニールントがセヴン・ヴェールであれだけ踊り動き、息を切らずに次の歌に移る。そしてピアニシモの歌を最後まで歌いきる。これは凄いとしか言いようがありません。人間の芸術表現の極みを魅せつけてくれます。凄いもんです。

ヨハナーンは井戸から出てきて歌い切ると井戸の中に戻るのだが、そのとき手にかけられていた鎖を自らはずし井戸に戻る。自分ではずせるのならそのまま逃げればいいような気もするのだが、そうはならない。
エヴァーディンクは随分前に亡くなっていますし、まぁ、生きていたとしても演出家は多くを語らず、語るべきでないとは思います。観る方にある程度思考をゆだねるもの。その思考の可能性というのは演出家が色々と巧みに考えたもののうちにあるべきものだろうとは思いますが。
演出家の考えた可能性を越えたような思考もあるのかもしれないが、それは概して演出や演出家を過度に美化したようなことになりかねない。演出家本人が生きていて、そうではないと否定するような場合は、その通りなのだろう。まわりが考えた一つの解はたしかにそういう含みも考えられるということがあっても、それはじゃぁ、そのあたりのことを全部説明してくれと言われてもできないわけで、はい、と言ってしまえば整合性のある回答を後で作らなければならなくなるかもしれない。済んだ後の暗中模索は前向きな話でもない。作品の一人歩きは魅力的なものではあるのだが。
演出家は高度な知能をもともと求められるものなのだろう。

グリムスレイは威厳のある預言者に相応しい体躯で、その堂々たる身の丈に共鳴したような深い声は魅力的で、その動きともども圧倒的な存在感。
潔癖さが招いた自らの死なのか、それともヨハネとして考えをめぐらしたほうがいいのだろうか。この歌い手の存在感は大きく、小さな動き、例えばサロメの頭に手をやる仕草などまで、色々と目立つので意味合いを考えたくなるようなところはありますね。
それにしても、井戸から出てきたナーマンが持っていた皿の首はヨハナーンだったのだろうか。

肩パットのきいたドレスのシュヴァルツ扮するヘロディアス、魔法使いのような服のキャラクター濃いフランツ扮するヘロデ、片方ずつでも十分にエキセントリック、二人合わせるとさらにその度合いが増す。ワーグナーの主役歌い手が二人同時にこうやって観られるというのはうれしい驚きですね。シュヴァルツの大きくて柔らかい声は今でも昔通り魅力的。フランツのテノールはジークフリートを聴いたものにとっては、朝飯前に見えるが、様変わりしたキャラクターロール、これもいいもの。

自刃して地面に転がっているナラボートをまたいで井戸に歩くサロメ、ナラボートの存在の薄さとサロメの狂気の夢中さを同時に表していて興味深いシーン。
ナラボートを歌った望月は役の存在の薄さに反してなかなか味のある歌と動き。しっくりくるものでした。
慕う小姓の加納はシュヴァルツに負けない声量。身動きが軽く役どころでも一番正常でまともで機敏さが印象的。サロメ狂気の長丁場で、ヘロディアスに連れられ彼女の椅子に座らせられるあたり、何を意味するのか。後編があってもいいのかもしれない。

オーケストラ編成は巨大、ピットにぎっしり。
ピアニシモ、特にトリルは正確で、心の不安定要素みたいなものを巧みに表現している。素晴らしいスキルです。
ビッグなサウンドでも全く濁らずドライヴとコントロールにたけたエッティンガーの棒のもと、ドラマチックな演奏を繰り広げてくれました。
満足です。ありがとうございました。
おわり