河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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2072- サロメ、新国立劇場、エッティンガー、東響、2016.3.6

2016-03-06 23:39:33 | オペラ

2016年3月6日(日) 2:00-3:50pm オペラパレス、新国立劇場、初台

新国立劇場プレゼンツ
シュトラウス 作曲
アウグスト・エヴァーディンク プロダクション

サロメ   96′

キャスト(in order of appearance)
1.ナラボート、 望月哲也(T)
1.ヘロディアスの小姓、 加納悦子(S)
2.サロメ、 カミッラ・ニールント(S)
3.ヨハナーン、 グリア・グリムスレイ(BsBr)
4.ヘロデ、 クリスティアン・フランツ(T)
4.ヘロディアス、 ハンナ・シュヴァルツ(Ms)

ダン・エッティンガー 指揮 東京交響楽団


凄惨さと美しさ、狂気と正気、発端と末路、こういった両極端なものが行きつくところまで行ってしまってしまったものを一切合切同時に表現し尽くすという名状し難いもの凄い上演となりました。振幅マックスの両極端さ、そしてはたと気づく。それらはもしかして紙一重かもしれないと。
ハイレベル、ハイテンションの歌い手たち、そしてこれまた凄まじかったエッティンガー、東響の精緻極致と鬼気迫るうねりのボルテージ。
あまりのものすごさに戸惑ったか、パーフェクト真空エンド。声にならないといった雰囲気。

照明を落とした中、緞帳が上がりいつのまにかポーディアムに構えた指揮者の棒で開始。
4場構成ながら、エヴァーディンクの演出では最初からだいたい全部出し。ヨハナーン井戸の蓋が閉じている、奥の宴会場にはカーテンが下りている。蓋とかカーテンが閉じたり開いたりする。100分物で、余計な小細工は不要といったところか。最初から全部出し、序奏前奏無しの凝縮オペラに相応しいものでしょう。
この新国立でこれまで何度も上演されています人気演目で手慣れたものと思います。自分としてはお初で観るプロダクションです。上演シーズン毎にソリストをリフレッシュして色々と観ることができるのはオペラ観劇の醍醐味でしょうね。

シンプルなストーリーな中、サロメが首を欲しがるのはお母さんのヘロディアスが求めているからではなく自分が求めている、と割としつこく言っている。逆なことを想像してしまう。実はヘロディアスがサロメに言いつけた。聖書は読みませんので詳しいところはわかりませんが、サロメは言いつけを言われたとおりにした。こう見てくると、サロメの人物像はそんな大きなものではなかった。サロメはこのあとも生き続ける。
ここでオスカー・ワイルドの作、これまた不勉強で読んだことがないのですけれど、ウエイトの高くないあたりを肥大化させドラマチックなストーリーに膨らませた。まぁ、物語の見えない起点がこういったあたりにあるのでしょうか。そのような膨らませの時代背景も興味深いものです。今回の千円プログラムにはそこらあたりのことを色々書いていますので、不勉強な自分にとってはちょうどよい読み物となっていますね。

サロメ、ヨハナーン、ヘロデ、ヘロディアス、みんなワーグナーの歌い手たちで、特にフランツはジークフリート役などで日本でもかなり活躍。今回ヘロデをどちらかというとキャラクター風味満載な役でうまくこなしているあたりをみるとその芸の幅を感じる。聴き手役に回ったり歌いだしのタイミングをはかったりとなかなかいい感じで動き回っておりました。舞台に溶け込んだ動きでした。きれいなテノールは変わりありません。ヘルデン風味を封殺しながら。
1943年生まれのシュヴァルツは相変わらず大きな声でして聴衆を魅了する。動きやしぐさも年齢を感じさせないものでさすがです。前日この劇場でイェヌーファのおばあさん役を歌ったばかりですね。一応、ヘロディアスは本来の歌い手がキャンセルしてその代役ということになってはおりますが、この千円プログラムに既にシュヴァルツが刷り込まれておりますので、確信犯的な変更ストーリーが予め準備されていたのでしょう。この代役は全く悪い話ではありませんし、シュヴァルツのメッゾの存在感は生半可ではないですね。
フランツはシュヴァルツの子供年齢なのですけれど、この夫婦役なかなか息の合ったところを魅せてくれました。ヘロディアスのほうがずっとエキセントリックだなぁと納得。ヘロデはストレートな役でキャラクター要素も素直に受け入れられる。
それから、夫婦のやり取りのシーンでは奥の宴会場の方から、ベッドのようなソファーも持ち出されて、その悪趣味ピンクレッド系な雰囲気が、彼らのコスチュームともども、クレイジーさを増長させている。この妙な色彩効果も抜群。
長身のグリムスレイの深いバスバリトンは聴きごたえありました。役どころは前半だけになりますが、まぁ、諭すようなところもこの音域、説得力ありますね。王様との微妙な関係、非難の間接的なもの言いなど、相応な味が出ておりました。井戸から出てきてもチェーンにつながれたまま、舞台映えした姿と歌、圧巻でした。井戸に引き返すときに、なぜ、自ら腕のチェーンをはずして戻るのか、よくわからないところもありました。潔さを表しているのでしょうか。
タイトルロールのニールントは没我という感じがだんだんとでてくる。最初は普通で最後は狂ってしまうまでの流れが自然、観て聴いているといつの間にかチリチリとヒートしていっている。観ているこちら側もだんだんと、いつの間にか、ですね。
井戸の中でヨハナーンの首カットを上からその音を聞くサロメ、コントラバスの超高音表現、深い淵をのぞき込むようなシュトラウスの見事な表現。ニールントの真骨頂はダイナミックな歌、やや細みの強烈に突き刺すような強靭な声、それと、あまりにデリケートで神経が透けて見えるようなピアニシモまで、振幅が大きい。ドラマチックな歌い手です。最後の調性帰結のピアニシモでの歌は野原に花が咲いていくさまをみているような錯覚に陥りました。おぞましさはすぐ隣にあるのに。
セヴン・ヴェールの踊りは最初、カーテンの向こうでシルエット風に、途中からご本人が現れて赤いヴェールを1枚ずつ。比較的重い踊りでしたが、踊り切りました。ニールントはおそらく若い時からこの役どころで踊っていて、本人は今でもそのイメージで踊っているのだと思う。ところが観ている方にとっては、縦にしか見れない。つまり時の流れなど関係なくて今ここにいるシンガーがスポット的に歌って踊っている、といった見方になる。聴衆は冷たいものだというのはこういったあたりで、自分の前を通り過ぎるだけの点としてのプレイヤーの存在をみながらの話になってしまう。ファンクラブ的な追っかけをしていれば別だが結局、歌い手の活躍の流れや歴史を知らない。どうしようもないところではあります。これ一点ですよと、踊りを披露しに来たのではないですから。
ちょっと話は違うが、エンタメでもなんでもパフォーマーは自分がどんなときでも、観客を毎晩ハッピーにするようなプレイをしなければならない。それは自分が落ち込んでいる時も同じ。厳しいのは毎晩のお客は毎晩別の人たちであるということ。プロの技はたいしたものだという思いの方が先にくる。

エッティンガーの棒、東響は歌い手の素晴らしさをさらに引き立てる見事な演奏。オペラ特有の埃っぽさというものがなくて、まず、正確。
正確な演奏でシュトラウスの曲がギザギザ刻みまできれいに響く。美しい響きでした。
それとフルのオーケストラサウンドが中空を漂うような雰囲気が醸しだされ、なにかこう、生き物のような動きで歌い手たちと別に歌い手がいるような流れ具合で、何に例えていいのかわからない、大海を漂うクジラがたまに噴水しながら泳いでいるようなそんな大きな流れ。また、ダイナミックな表現はエッティンガーのツボで大胆で切れ込み鋭い。オーケストラ能力を満喫できた演奏でした。

ありがとうございました。
おわり