河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1747- ワルキューレ第1幕、スティール、ブロック、小鉄、ブラビンズ、名フィル、2015.1.30

2015-02-02 00:34:03 | コンサート・オペラ

2015年1月30日(金)6:45pm 愛知県芸術劇場コンサートホール

シュトラウス  13管のためのセレナーデ op.7  10′

ブリテン  シンプル・シンフォニー op.4  3′3′9′2′
Int

ワーグナー  ワルキューレ第1幕 (コンサートスタイル)  67′
           (in order of voice’s appearance)
           ジークムント、リチャード・バークレー=スティール、テノール
           ジークリンデ、スーザン・ブロック、ソプラノ
           フンディング、小鉄和広、バス

マーティン・ブラビンズ 指揮 名古屋フィルハーモニー管弦楽団


食指の動いた公演がありましたので名古屋までうかがいました。一泊2公演です。名古屋には昔、仕事で住んだことがありますので、今回時間を作って、公演の合間に当時の住処や仕事場のあたりをいろいろと歩き回りました。これについては別記したいと思います。

このホールで聴くのは初めてです。名フィルを聴くのも初めてかな、たぶん以前聴いているはずですがなかなか思い出せません。ホールの場所は栄ということで、仕事帰りはだいたいこのへんで毎晩うろうろしていたのでわかりますがどちらかというと逆サイド。

ということで、早速。この日は公演1日目、2階席中央、あいにく前の席に座高のあるおじさんが座ったため視界不良、シュトラウスが終わったところで、空席に移動しました。同じ2階センター少し左寄り通路わき、なかなか見晴らしがよかった。音は翌日の1階席がより良かったですが明日と言うことで。

この指揮者は昨年都内で2回ほど初めて聴きました。イギリスもの中心でよかったと思います。とはいえ、この日のターゲットは作品と歌い手たちです。スティールはこれまた初めて聴くと思うのですが、他のお二方は聴いたことがあります。ブロックは初台のトーキョーリング、小鉄はグート・プロダクションのパルジファルでのグルネマンツ、等々。
基本的に作品中心で観聴きの行く行かない判断をしますので、しいて言えば作品おっかけ。

スティール、ブロックの一糸乱れぬ歌唱は当然と言えば当然なのですけれど、柔らかくて気品のあるスティールのヴェルゼからのロングな展開を経て、息ぴったりの、冬の嵐は去りのあたりまでのナイーヴな盛り上がりと逃避行、極度なドラマチック性を追うことなく、森の中と言うよりもまるでお城の中の出来事のようなノーブルな味わいは、これはこれでなかなかいいものでした。
長身のスティールはソフトで、ヘルデンテノールの黒光りモードの張りのある声とは異なる。均質で声の色が変わらず、ヴェルゼでも余裕のある一歩ひいた感じの歌唱、声量があり納得の百戦錬磨。ブロックはふけましたが以前と同じような肺活量でダンナ越えの箇所も多々あり。
ブラビンズは過度なドラマチック性の表現はせず、柔らかに奥行きをだしながら横幅広げてじわじわと大団円で頂点へ。テンポでワーグナーを締めつけない。ワルキューレの3拍子が自然に耳に沁みてくる。リズムの深彫りは何かを失うことになるのだと言っているようです。
名フィルはしなやかで奥行き感のある響き、座る位置にもよると思いますけれど、ソフトな響きがホールを覆います。比較的明るくまろやか、クリーム色のオレンジ。


ワルキューレは幕ごとにだんだんとうるさくなっていって、ブリュンヒルデが火の中におさまるところで終わるわけですけれど、この第1幕はうるささの前の静けさ以上の落ち着きがあったように思います。ラインゴールドの神々の入城から、カミタソでのジークフリートの死まで、いろいろな響きが現われては消えていく、それがものすごくよくわかる。
ソロ斉唱でのブラビンズはオーケストラの弱音制御がお見事で、声と非常によくバランスしている。そのような中をライトモチーフがくっきりと現われてくる、飽くまでも自然のコントロールの中で。
ブラスセクションがはいっても弦の鳴りを消さないバランス感覚はこのオーケストラの本能的なサウンド制御なのだろうと感じた。これは素晴らしい美点でワーグナーの響きを落ち着いたものにさせてくれる。歌手、オーケストラがともに美しいニュアンスでそれがよくわかる。柔軟性にとみやや明るみのあるまとまりサウンドが美しく響きました。

このデュエットのカタルシスは、冬嵐が過ぎて剣抜きまでの果てしもなく充実した斉唱、この両者に微にいり細にいり、寄り添ってよく歌う弦の雄弁なブラビンズ棒で頂点の高みへ。まるで三重唱のごときアンサンブル。エポックメイキング・ナイトでありました。
16型、対向、ソリスト3名ともに譜面無し。


ところで、
誰か入ってきたの?いや、春の陽射が入ってきたのだ、冬の嵐は消えた。
素晴らしい斉唱、重唱、こんな感じで最後まで行くわけだから、剣が抜けなかったら?などと思うと身震いがする(笑)、
でも、そんなこともちょっと思い浮べました。あまりに素晴らしすぎると、悲劇の始まりの紙一重に喜劇があったりするものだ。
予定が調和する前提でワーグナーはストーリーを進めているわけで、その思いの部分が過度になっている傾向は確かにある。はまりこんだらなかなか抜け出せない作曲家作品ではありますが、まぁ、だからと言って嫌いになる必要もない。プレイヤーも同じ。

歌い手はオペラハウスを通り、過ぎてゆく、いつまでも残るのはハウス。歌い手達は舞台を去るとすぐに忘れ去られる。比較、聴き比べ自慢が大好きな日本人、それもいいが、今を楽しめばそれはそれでまたいいものです。


プログラム前半、
13管セレは全員スタンディングで、身体を動かしながらの奏法が難しい女性お二方によるホルン、それとバスーン、これら以外のインストゥルメント奏者たちは体がよく揺れる。アンサンブルをしている実感。アンサンブルとは周りを感じるということ。
このオーケストラのウィンドは高性能でした。ニュアンスが良く出ていてシュトラウス初期の淡い感じ実感。

次のシンプルシンフォニーでの終楽章始まる前のミラクルなスーパー・フラブラは一体なんだったのかと、早い話、曲を知らないだけのことかもしれない。細やかな演奏に水を差すこの変なタイミングの雄叫びがあったせいか、そのあとの展開が割と静かになって良かったかもしれない。曲自体は明日もう一度聴けばいいかなという感じでした。ぶち壊し屋はどこにでもいるものですね。

演奏会の前に、あすこのコーヒーを一杯いただきました。東京の400円コーヒーより高くてまずい。量が多すぎてみんな残しているだけではないとみる。
これも翌日の散歩でリヴェンジですね。
おわり




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