河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1755- 変容、ブルックナー9番、ティーレマン、ドレスデン国立歌劇場管、2015.2.24

2015-02-24 23:35:52 | コンサート・オペラ

2015年2月24日(火) 7:00pm サントリー

シュトラウス  メタモルフォーゼン 27′
Int

ブルックナー  交響曲第9番ニ短調(ハース版) 26′11′27′

クリスティアン・ティーレマン 指揮
ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

elapsed time at ab
<第1楽章> 26分
第1主題 4
第2主題 4 (主題3+経過句1)
第3主題 4 (主題3+経過句1)
準展開部第1主題 1
準展開部第2主題 1
準展開部第3主題 1
展開部+再現部 9
コーダ 2

<第2楽章> 11分
スケルツォ 4
トリオ 3
スケルツォ 4

<第3楽章> 27分
第1主題 4 (主題3+経過句1)
第2主題 4
自由な展開 14
コーダ 5 (調性帰結前3+帰結2)


鉄板解釈を鉄板聴きしたという話です。

9番の演奏行為がまるで建築物の様に見えてくる一種名状し難いもの。普段聴くような音楽の演奏会とは全く違っていて、深い森の中に立っているビルディングが最初は遠目に、森をかき分けて進むとだんだんと近づいてきて全貌がうっすらと、最後はクリアにそびえ立っているのを理解、把握できる、そんな感じで、最後の最後は天空から地上の建築物を睥睨するような気持ちとなる。音楽とは一種別なアンビリーバブルな体験となりました。

この種の演奏は逆立ちしても構造だけです。つきつめて言いますと、日本人が好む非対称、アンバランスな不安定力学美学とはまるで異なる強固な造形物の構築作業と結果の見事さです。
そしてもうひとつ、遠い国の遠い昔の、F系のエキセントリックな世界観とは別のもう一つの世界、つまり隠れていた時空が出現したという話です。


始点から終点まで時間軸の中にあるのが音楽で、演奏はそれを見せる為の実現行為になるわけですが、この演奏はまるで造形物でも観ているように感じた。
時が経てば現在からの時間距離はおのずと遠くなり、つまり始点終点は少しずつ近づいていくように思え、最後は同じ時間軸で一体化する。そのような現象を見せてもらいました。始点は終点よりも過去のものではなく、最初の音から最後の一音までで、構造物が完成したようなおもむき。古い方から忘れるといったそういう話では決してありませんでした。
時間推移が消えたような、一つの超常現象を感じたエポックメイキングな気配をもつ演奏となりました。
私がトレースした経過時間は思うにティーレマンの音楽解釈と表現方法や手段をトレースしたものと感じております。彼の意識された音楽表現方法という話です。

このての方針で成功しそうなのはこの9番とあとは静止画像みたいな解釈を受け入れ可能な4番ぐらいかなと思います。一つの面を極大化して見せたやり口は圧倒的でしたが、全部これでいけるかというとそうでもないと思うところはあります。
第3楽章の帰結5分に至るちょっと前の木管の不協和音の音符のばしのテンポは尋常ではないスローさ加減で、あれと同じのはクレンペラーの演奏ぐらいしか浮かばないのですが、全体的な静止物件の構造を完結させるためにはああなるしかない。それでいて最後の帰結は情に耽溺することなく比較的あっさりと終わる、構造バランスの整合性とはこういう話かと思いまして、不気味なくらいジャストフィット。この方針でいけるのはやはり限られていると少し脳裏をかすめたわけです。
支えが不要な彫刻作品の制作現場をみているような感じですね。

と言う感じで、やにっこいニ短調の出だしを思い起こしてみるだけでも全貌が目に浮かんでくる。
プレイヤーが全プルト全インストゥルメント、指揮者と同じテンションと集中力で動いている、圧巻。指揮者と全プレイヤーがまるで一つの生き物のように一体化、圧巻。
両者で構築作業をしている。プレイヤーたちの生々しい豊かな経験が指揮者を動かしているのも手に取るようにわかる。そして指揮者は現場監督と指図、上下関係ではなく相互作用により物が出来ていくのが手に取るようにわかる。圧巻です。両者の骨髄のエキスを感じる。

アウトプットされたものは案外、普通の出来事だったのかもしれませんけれど、それを追体験できました。ブルックナーの作曲の追体験ではありません。完成品を完成品としていつもよりもうひとつ突っ込んだ形で見ることが出来た体験と言う話です。


ここでちょっとFが1944年に振った9番を思い出してみよう、思い出したくないという気配もある中、非線形型ゆがみの醍醐味、でもそれは聴き方が、ティーレマン的創造の世界に立った聴き方をすれば、そのように聴こえるという話です。音楽の運動をF的哲学で実行すれば今かろうじて聴かれる録音のようになるし、ゆがんでいるのは音楽が発せられた空間と聴き手であって、彼の哲学を実践すれば指揮したすべての演奏が、当然、あのようになっちまう。
構造物はゆがんではいけない、ひずみもいけない、壊れるから、確かにそうなんです。時空、空間、それらが真っ当であれば確かにそうですね。
Fは、そうはなっていないと言葉と文にし、それを実行した人なんです。このように自らの思考、文を具現化した人はいそうでいない。Fの本は全て読む価値があるし深いものですが、それらはちょっと横に置き、とりあえずは現象。
ティーレマンの現象は対極の現象でした。対極と言ってしまうとティーレマンには言葉や文がないのかと言われそうですが、そうではなくて、ティーレマンはそれらが不要である世界を見せてくれたということで異次元だったわけです。一見するとFのほうが異次元っぽいですけれど、まぁそうかもしれませんが、ここは、言葉の替わりをするものというよりむしろ言葉なき世界が見事に成立していたということを、対極演奏のFを思い出すに至り、そのことが驚異だったと換言してもよいのかもしれません。
ここは異次元と言う最近の流行り言葉を本来の意味で使いたい。
彼らの行為により次元や時空、空間、ゆがみ、ひずみ、線形、対称非対称、構築物、等々、そのようなものが複数存在しているということをあらためて気づかせてくれた、それが実感です。隠れていた時空が姿を現したと言えるかもしれません。

思うところは沢山ありますが、とりあえずここまで。


プログラム前半のメタモルフォーゼン。この曲、いきなり暗譜棒と言うのも割と妖しい。徹頭徹尾理解しまくり振りまくりなのでしょう。23本の神経の一本一本が生きているのが見えるような演奏で、あまり聴いたことのない凄いオーケストラアンサンブルでした。
23人中、女性奏者は3人。いまどき日本のオケでは見られないレアな比率です。物理的な力強さも表現の一端を担っていると考えて然るべきかと思います。

ティーレマンは随分前、ベルリン・ドイツと来日していた頃は割と子供子供していて、自分の出番でない時はホール通路をはしゃぎまわったり、そんなシーンが目に浮かびますが、さま変わりです。
ニヤケ笑いはもちろん一切なし、スーパーシリアスすぎる顔でブルックナーに対峙。ニヤケる理由などかけらもないわけですしね。

ティーレマンは天才肌と言うわけではないと思います。オーケストラの自発性を引き出す。このてのオーケストラには最適な気がします。
エポックメイキングな一夜でした。ありがとうございました。この日の演奏会のことはまた書くかもしれません。
おわり