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1105- マーラー 交響曲第6番悲劇的 インゴ・メッツマッハー 新日フィル2010.11.06

2010-11-08 00:21:54 | インポート


2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2010年11月6日(土)2:00pm
すみだトリフォニー
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マーラー 交響曲第6番悲劇的
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インゴ・メッツマッハー指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
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アシュケナージの爆演と方針が同じかどうかということはあるけれど、もっともっと追い込める余地はありそうだ。

この日のタイミングはこんな感じ。
Ⅰ:23分(提示部繰り返しあり)
Ⅱ:13分(スケルツォ)
Ⅲ:16分
Ⅳ:30分
メッツマッハーは11/2の日もそうだったが割と譜面を見ながら振る。いいとか悪いとかという話ではない。昔クレンペラーはどんな場合でも譜面を見ながら振っていたようだし、だからどうのこうのというつもりはない。メッツマッハーはいい指揮者に変わりはない。音楽を生成している感じがする指揮者であることには変わりはない。第一楽章提示部をリピートしているが、リピート時は譜を戻すこともなく振っているので一種保険のようなものなのかもしれない。
ここのリピートに関しては、第一楽章だけでモーツァルトのシンフォニー1曲分ほどの長さがあるので、約5分の提示部の繰り返しは相対的なバランスを考えると妥当なのだろう。昔はリピートしない演奏が普通だったような気がするのだが。
第一楽章は冒頭から最後までヒステリックな音楽的絶叫が絶え間なく続く。これほど絶叫が説得力を持つ音楽はほかに知らない。着ぶくれ以上に身にまとったものが過多で究極の行き過ぎ感があるのだが、なにせソナタ形式を踏襲しているため、締め付けられた説得力も普通ではない。ジョージ・セルが正規盤で残したくなる6番ではある。シェーンベルクは新たな音楽語法を見つけ出したのに、形式は以前どおり。打破すべきものではなかったのかもしれない。形式の意味はもっと別のところにあるのかもしれない。
とにかく、6番はそのような曲だ。メッツマッハーがなぎ倒す第一楽章はいかにも着ぶくれ状態の曲なんだ、この6番は。と言いたげな演奏だ。
線をくっきり出していくので縁どりが明瞭、かといって分解されている感じでもない。太いラインが堂々と出てくる。物々しさもある。メッツマッハーがこの曲を得意にしているのかどうかはわからないがそんなに回数はこなしていないのでは?
分解能力はオーケストラの水準にも左右される。悪い意味ではなく、このオーケストラの表現を考えるとこのような肉厚な演奏表現でいくしかないというか、成り行き任せとは言わないが、オーケストラの特質をとらえた演奏でもある。たとえばホルンのソロトップの音は太い。それをベースにした音楽づくりということ。ヴァイオリンは第一と第二が若干バランス的に問題というか、異質的な部分があるような気がする。その上での音楽づくりということ。極度に肥大化されている音、あらゆる音が聴こえてくるというわけでもない。このオーケストラだけ頻繁に聴いている人がいれば、こうゆうもんだと思ってしまう。明らかにもっとスキニーに出来る個所が散見される。
今の時点でメッツマッハーのマーラーはこうだというものは見当たらなかった。ただ、ヒステリックな曲だという再認識は出来た。
第一楽章はエネルギッシュを通り越しヒステリックすぎるわけだが、形式感がそれをうまくくるんでいる。そして第二楽章なんですが、この日はスケルツォを置いてます。いわゆる通常の演奏なんですが、通常という意味、変かもしれません。第二楽章にスケルツォですから。
ベートーヴェンの第九のインパクトの比ではありませんけれど、破壊して再構築した作曲家の真似をしたことになるかもしれません。ただし、あまりにクレイジーな第一楽章のあとにアダージョが似合うかどうかというのは考える余地がありますし、息せき切った余韻をまともに受け止めるにはスケルツォが妥当な気もします。
この第二楽章に置かれたスケルツォですが、メッツマッハーの棒は(棒は持ってませんけど)、あまり滑らかではありません。マーラーがわざとゴツゴツしたワルツにしたかったのをうまく表現した?と言えるのかもしれませんが、この一部変拍子が絡む三拍子の音楽を滑らかに流れるように表現できていない。起伏を丘のように表現できて初めて、曲を知り尽くした、オーケストラをコントロールできた、ということになります。曲のゴツゴツさをうまく表現できたというのは適切な物言いではありませんね。
第三楽章第四楽章は全てアタッカではいります。
第二楽章のスケルツォが静かに終わりそのまま至福の第三楽章が始まる。これはこれでいいものです。第四番の第三楽章と双璧だと思います。調子っぱずれなホルンのメロディーラインのように、意識された調性の破壊のような個所も見受けられますが、総じて、浸ることのできる音楽です。第一楽章や第四楽章と対比も見事ですし、アンダンテ・モデラートとして、この交響曲の形式を踏まえながら浸れる唯一の楽章かな。
この第三楽章におけるメッツマッハーは浸れる音楽というよりも暗中模索といった感が強い。ここでも音楽の縁どりは見事で美しい音楽が気持ちよく響きます。ただ、音楽のせり上がり感というか、熱をもって濃くなる部分、微熱を帯びるようなところがない。アンサンブル重視、バランス重視はそれはそれでいいのですが、音楽の熱も欲しい。
それで静かに気持ちよく第三楽章を終えここもアタッカで第四楽章にはいります。第四楽章は序奏付きです。序奏だけで5分。30分の長さがありますので序奏も濃い。この第四楽章も音響的には爆だが形式感はシンプルです。
メッツマッハーは、2回のハンマーにそんなに思い入れや未練があるわけではなさそうで、どちらかというと、通過、といった感じ。割と淡々とこの繰り返し音楽は進んでいきます。
よく言うとオーケストラの肉厚感を生かした演奏。換言すると、もっと絞り込んで俊敏な演奏スタイルを模索。そんな感じの演奏でした。その昔は日本人には演奏不可能と言われたこともあるマーラーの6番ですけれど、今では聴きすぎで陳腐化してしまった?
第四楽章は三度の焦点がありますが、どれに合わせているのかもしくは合わせないようにしているのか、譜面を越えて来年戻ってきて答えを魅せてくれることでしょう。
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なおオーケストラに関しては、ブラスが一部、雰囲気で流してるところがある。スキルの均質化に問題ある。トラ多数による当公演だけの問題点かもしれない。
ストリングは非常に美しく、マーラーの紅い炎の核がめらめらと燃えているさまが良く表現できていた。
おわり
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