河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1103- インゴ・メッツマッハー 新日フィル ハルトマン 2010.11.02

2010-11-03 11:34:18 | インポート

101102_201201


2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2010年11月2日(火)7:15pm
サントリーホール
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ブラームス 悲劇的序曲
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ハルトマン 交響曲第6番
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チャイコフスキー 交響曲第6番
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インゴ・メッツマハー 指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
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メッツマハーのCDはたぶん何枚かもっていると思うが、生聴きは初めて。思っていた通り素晴らしい指揮者。チャイコ後半ではもしかしてこの曲をこなしていないな、という局面もありましたけど総じていい棒振り。
棒振りと言いながら棒は持ってません。素手で柔らかく振ります。全身を使うのもいい。
音が体から出てくるように思えるのは才能ある指揮者の典型的なパターンだ。全てを自分の中で一度消化してから再構築している。そのようなことが手に取るようにわかります。
このオーケストラのミュージック・ディレクターとはかなりの開きがある。プレイヤーもたぶんそんなこと言わずもがな、なんでしょうねきっと。
ピアノ出身のオペラ振り、現代音楽推進、掘り起し系。だいたいこちらのイメージも湧きます。実力派ですね。例えば現代音楽オペラ振りは、みんなが素通りしてしまいそうなところを自分の耳で振ります。自分のスタイルを完全に持っているいい指揮者。
顔写真だけだとゴツゴツしてますけど、割とスキニーで気を使っているのでしょうが、俊敏な動き大切です。
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ブラームスは、ためを思いっきりつけた濃い演奏。フルオーケストラながらダイナミックさに加え、呼吸をためて一気にはき出す、そんな感じの演奏でした。また柔らかな第二主題のようなフレーズは美しく聴かせてくれる。自分の耳で聴いたものを表現してくれている感じ。既成概念にとらわれず自分で感じたものを表現する。だから陳腐化していない。これが現代音楽掘り起し系の指揮者が名曲に立ち向かう時の一つの姿であるような気がする。いつでも。
それとどのような複雑なところもテンポを落とさず明確に振り続ける。
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今日の目玉はハルトマン。
初めて聴きます。ハルトマン自体初めてと。
交響曲といいながら二楽章形式。
第一楽章12分
第二楽章15分
この、第二楽章なんですけど、
「熊蜂の飛行」みたいな音楽が15分間、鳴りっぱなしです。これはどちらかというと、トンデモ系かな。何を言いたいのかわからないが大迫力間違いなしではある。昔、ドイツにこんな曲を作っていた人もいたのか、そんな感じです。
その時代への苛立ちの表現ということもあるでしょう、エキセントリックな表現が延々と続きます。時代背景を、少なくとも心象風景としてでも表現するということは、それが普遍性を勝ち取るのは並大抵ではない。かえって外面(そとづら)の描写音楽の方が説得力があったりします。具体的なものの描写音楽はわかりやすい。ハルトマンのような音楽はなかなか大衆受けはしなかったのだと思います。
その意味でメッツマハーの取り組みは隙を突いたというか光をあて方が良いと思います。
第一楽章の淀んだ空気感。灰色の響き。第二楽章のせわしなさ。見事な対比で聴かせてくれました。ブラームス同様、複雑系でもテンポを落とさずむしろ駆り立てます。この明快さはこの種の指揮者の特徴であり、プレイヤーにとっても表現のし甲斐があるというものだろう。爆発が爆発を重ね頂点で終わります。ただ、曲自体に呼吸がない。両楽章ともなにか壁に塗りこまれたような音楽です。
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後半は悲愴。これが一番おもしろかった。単に客寄せプログラムぐらいのレベルの認識だったのですが、解釈、表現ともに秀逸でしょう。
Ⅰ:18分
Ⅱ:9分
Ⅲ:10分
Ⅳ:10分
一番示唆的だったのはいきなり冒頭で現れます。最初の弦からすぐにコントラバスが弱音で出ますが、ここをメッツマハーは明確に、指でコントラバスを指します。ハッと思うんです。この音聴いたとき、これって最終楽章の最後の音だ、と。
最初から最後が見えている。現代音楽のオペラ振りの指揮者ってこうゆうところがあるんですね。ブーレーズなんかも同じ。新鮮に曲が聴ける。蘇る何かがある。いつも示唆に富むなにかがある。いい指揮者だとこうゆうところで思ってしまう。
それにもまして素晴らしかったのは、第4楽章。尻つぼみ楽章なんですが、この楽章のストリングの歌の呼吸が最高。ザーと弾いて、空白をつけ、ザーと次に入る。空白にかなりウエイトを置いている。ハルトマンよりこちらのチャイコの表現の方がまさしくマーラー第九の第4楽章結尾部のような様相を呈した。非常にユニークで示唆的。空白を全身で表現しているので意図的なのはもはや明確。このように表現したかったということです。
いい体験をしました。
第一楽章の第二主題にはいる呼吸の空白で咳をした人間がいましたが、我慢できないことは、いつでも一番大事な場面でしてしまうという例ですね。それを無視してあまりある濃い呼吸の表現でフレーズが流れていきますが、フレーズの塊がなにか微睡のようにとろーんとステージ上横に雲のように広がる。それらがフレーズを繰り返すたびに前の雲が消えず次々と雲があらわれ重なってでてくる、そんな感じ。
音色のバランスに配慮しながら歌っていく、アンサンブルバランスを自分の耳で整えながら表現していく。まさに現代音楽推進派の面目躍如たるところでしょう。
週末のマーラーの6番への期待が一気に拡がります。
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それにしても、悲愴の第3楽章っていつ聴いても爆な音楽だなぁ。名曲をCDで聴くのもいいけど、この第3楽章はやっぱり現場で聴いてほしい。いかに爆か、チャイコフスキーってとんでもない作曲家。
おわり

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