河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

786‐ NIEBELHEIMのSchlange

2009-03-11 00:22:56 | 音楽

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初台のラインゴールドですが、第3場、ニーべルハイムの文字は逆さま、そして裏返っている。
アルベリヒならぬ大蛇は左上から逆さまに現れて煙を吐く。。
この第3場、地下の鍛冶場も傾斜してます。
非常に不安定。斜めになることの不安定感はこのラインゴールドだけではなくゲッテルダメラングまで続きます。来年になっちゃいますけど。。
コンパクトな舞台ですが、新国立のキャパにはちょうどいいかもしれません。
例えばメトだと、オーケストラと呼ばれるいわゆる土間、値段が高い席ですが、舞台よりかなり下に位置し、舞台は上を見上げるような感じになります。
新国立の一階席は非常に浅いもので、というか、いきなり斜め上に向かってます。ですので、一階席の後方はウォーナー・プロダクションによる舞台の上に作られた舞台と同じ目線になり、観やすい。
スケール感はあまりありませんが、これはこれでいいものでしょう。
ただ、オペラによってはオケピットから出てくる音が騒々しい。ワーグナーもそう。
オケピットからでた音は天井にぶつかり下に舞い降りてくるが、土間席が浅いため、十分鳴りきらないで床にぶつかる。上下の音と前面に出てくる音が騒々しく交差してうるさい場合がある。ワーグナーでも中編成で十分かもしれない。

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785- WALHALL ラインの黄金 オペラパレス初日 2009.3.7

2009-03-08 16:10:10 | 音楽

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新国立劇場のラインゴールド初日に行ってきました。

キース・ウォーナーのプロダクション再演です。

2008-2009聴いたコンサート観たオペラはこちら

200937()2:00pm

オペラパレス、新国立劇場

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ワーグナー/ラインの黄金

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キース・ウォーナー プロダクション

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ヴォータン/ユッカ・ラジライネン

ドンナー/稲垣俊也

フロー/永田峰雄

ローゲ/トーマス・ズンネガルト

ファーゾルト/長谷川あきら

ファーフナー/妻屋秀和

アルベリヒ/ユルゲン・リン

ミーメ/高橋淳

フリッカ/エレナ・ツィトコーワ

フライア/蔵野蘭子

エルダ/シモーネ・シュレーダー

ヴォークリンデ/平井香織

ヴェルグンデ/池田香織

フロースヒルデ/大林智子

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ダン・エッティンガー 指揮

東京フィル

ドンナーがハンマーをグルグル回しし、もやをかき集め、そのハンマーで岩に一撃を喰らわすと、ヴァルハル城が出来上がるまで仮の宿にしていると思しき小屋が縦に炸裂し、舞台の奈落に沈み込み、後方から真っ白い病棟のようなヴァルハル城の内部が押し出されてきて、天井がひらき、風船が舞い落ちてくる。。。。ヴァルハル城への入城場面は事実上の第5場の様相となる。

一聴衆からすると音楽に対する唖然とする劇的なものと、ポワーンとしたものが入り乱れ、これもワーグナーかなどと思ったりもするが、肩透かし感はない。

2場でヴァルハル城を遠くに見渡すシチュエーションとなっているので、引越しのための仮の小屋のようなものが舞台のメインであるから、通常4場ものであるラインゴールドが最後の10数分の入城場面を分断された第5場ととらえてもいいのかもしれない。

直前、エルダが地面が割れて出てくるのではなくジグソーパズルから出てきてヴォータンに指環は受け取りなさるなと説法をするわりと唐突な局面、それに続く、ハンマーシーンといった具合で連続的な動きが出るところであるので、その頂点での場面転換は納得できるものだ。

それまで座って棒を振っていたと思われる2万パーセント バレンボイム状態のエッティンガーは立ちあがりピットより首一つ上に出しエキサイト気味に振り終える。

このラインゴールドの演出は喜劇なのだろうか。

ラインの乙女たちの足ダンス。アルベリヒのぬいぐるみ仮面。彼らは映画館でライン川の映像をみている。

段ボール箱から出てくるローゲはマジシャン?

ドンナー、フローのかなり爆気味な舞台への登場。

とてもお城なんか作れそうもないファットなファーフナー、ファーゾルト。

ハンディカムで撮りまくりのフロー。

最後に上手から下手に走り去った病人みたいなものはなに?

いたるところにある文字はひっくり返ったり裏返ったり。ニーべルハイムなんてひっくり返って裏返ってる。

カーテンコールで一列にならんだ出演者、背が一番高かったのはアルベリヒ。ここまでシニカルに考えていたわけではないだろうが。。本当かしら?

冒頭ヴォータンが映写機のようなものを聴衆に向け、全ては幻灯機でみる輪廻さ、と暗示する。これは同じプロダクションの神々の黄昏の最終シーンと相呼応するもの。(


784- 完全一筆草書書き ダニエル・ハーディング 新日フィル 2009.3.6

2009-03-07 16:00:00 | 音楽

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嵐の中、吹き飛ばされながら、錦糸町まで。

ハーディングの棒は初観戦。

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200936()7:15pm

すみだトリフォニーホール

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ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲

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ラヴェル ラ・ヴァルス

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ベルリオーズ 幻想交響曲

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ダニエル・ハーディング指揮

新日フィル

初めてみるハーディングの棒、といっても棒は持っていない。腕と体で振るが、別にいやみなほど誇張された指揮ではなく全部納得のいくものだ。

ウィーン・フィルとのマーラーの10番のメロウな美しさがやたらとすごくて、それで今日観る気になったのだが、そのイメージとたがわぬ方向感に、なんだか素晴らしいものを得たような感じ。

一言でいうと、一部、草書スタイル、ほぼ全部一筆書き状態。これは新たな解釈スタイルなのか。

縦の線は全く気にしない。ひとつずつのフレーズがバーが独立してあり、それが彼の腕のもと生き生きと表現され、音楽の感興を生成し、結果、次の音、次のフレーズへのアクセルとなり、微妙に音楽が呼吸をしながら連鎖をかもしだす。

なんだかよくわからないが、オタマジャクシが息をしているようで、四角四面な表現とはかけ離れた微妙な息づかいが全体を支配。

音、音色、バランス、テンポ、そんなものがかなり考え込まれており、並みの指揮者ではないなぁ。

この一筆書きスタイル、このように細かく計算されたもの。それで、あとはプレイヤーの腕しだい、となるのだろうが、実はこの一筆書き、それ自身がプレイヤーの自発性を引き出す技になっていないか。やる気度があがっている。

牧神は味わい深い曲だが、いきなりの超スローな出だしにフルートはうまくいったが、そのあとのホルンは、空中分解。艶のあるいいサウンドだけに惜しさも増すだろう。本人にとっても。

指揮者と関係なくフルートは吹き始めるが、だからといってフルーティストが決めたテンポ設定というわけでもないだろう。スローな上にハーディングが腕を回し始めてからはどんどんおそくなる。もしかして練習と違ったテンポ設定だったのかもしれない。

そのあとは、糸をもつれさせながら一フレーズ、一楽器、アンサンブル毎に、今そこにある音色を聴かせながら、いやいや先に進む。ユニークで味わい深い表現だ。

また、中間部の圧倒的変幻自在のテンポ感が、けだるさの中に躍動感をみせたりする。ややクリアすぎるオーケストラの音ではあるが、逆にこの明快さが、普段接していない指揮者のもとでは好結果をもたらしたりするものだ。ドビュッシーのウェット感が、理解できる輪郭で表現されていたように思う。前奏曲とは思えない充実した演奏。

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ラ・ヴァルスはプログラム前半の曲として聴いた記憶はない。後半に幻想を置いているのでこのようなプログラム・ビルディングになったのであろうし、ドビュッシーとラヴェルの対比、それに後半はベルリオーズ、という具合だから方針は明らか。あとは自身の草書、一筆書きスタイルに合致する表現ができそうなものを選曲。この日のビルディングは正解ですね。

それでこのワルツですが、曖昧模糊とした中から徐々に輪郭をおびてくる面白い曲。好きな曲です。

ハーディングの計算を感じたのですが、どうゆうところにかというと、頂点への音楽のもっていき方、頂点はスコア的なものではなく自身が感じている頂点、それも複数個所あると思われるが、その頂点に向かって音楽を進めている。こうゆう感じは、それぞれの頂点のところに達して、聴衆としては初めてわかる、そういったものなんでしょうが、逆に指揮者自身は自分の作戦なわけですから、最初からわかっているわけです。ですから、評論家連中がよく言う、先を見据えた見通しの良い音楽作り、などという表現はそれがわかる自分をほめているにすぎないのです。脱線しました。。

とりあえず、ハーディングは若い、といっておきましょう。

曲が持つ自然な沸騰感に上乗せされた趣向は際どい表現ながらこの曲のクレイジーで自暴自棄な側面を魅せてくれました。やっぱり瞬間のエンディングは音楽という流れの中にあっては破局的。アイヴスの交響曲第2番が遠くにこだまする。

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後半の幻想交響曲ですが、面白い配置を見ることができました。ハープが指揮者の後ろ、つまり一番手前に陣取り、協奏曲であればソリストのあたりの位置にセットされました。右側左側それぞれ2台。いまどきブラバンでもハープを使う時代ですから、一番手前に置いて見せっこするわけではないでしょうから、ハーディングの音楽に対する明確な意思と判断すべきでしょう。第2楽章が終わったところでお役ごめんで横に片づけられました。

その第2楽章ですが、ハープの音が前面で壁を作るのではなく、垂直にるつぼ的な沸き立つサウンドになっており、あの配置の妙が出たよう。ハーディングの解釈が生きた。

この楽章のエンディングは、ハープも他の楽器も、すんなり終わらず、かなり誇張され引き伸ばされた普読みになってました。このワルツの引き延ばしは曲の後半というものがなんとなく想起されて面白い。

ハーディングはこのような小技の多用というか明確な意志のもとにいろいろとやっているようだ。例えば、第4楽章の恣意的な弦の引き伸ばしボーイング、第5楽章で2個並べたチューバの強烈なアクセントに対し、他のブラスの滑らかな吹奏。

技をいたるところに使って曲が疲れてしまうということはない。ハーディングの解釈を聴くと、次に何が出てくるのかやたらと興味が湧いてくる。だからこちらの集中度も増し、結局、一筆書きスタイルに協力してしまっているようだ。

4楽章のリピートには、はっとさせられる。2回首を切られそうだが、第5楽章の悪魔的笑いの表現とともに、音楽描写が見事。

面白さでつないでいく音楽進行が、結局、一筆書きのように聴こえてくるわけだが、もう一つ忘れてならないのは、しなやかさを強調した美しい弦、それにウィンド、ここらへんもハーディングの得意技だろうと思う。弦をしゃくりあげるようにあおり、プレイヤーもつられてグワンと一気にいく。呼吸が合っているせいか見事なピッチのもと、メロウな世界を表現させる。

ブラスをあおりたてた激しい幻想は、ちょっとズレズレになった個所もあったがハーディングはツボを心得ており決めるところは決める。これまたお見事。不発だったのは聴衆のなんとも気の抜けた拍手だけ、というわりと熱い夜だった。

外に出たときには嵐もやんでいた。

おわり

2008-2009聴いたコンサート観たオペラ

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783‐ 昔の華金 L-Mnhttn

2009-03-06 01:09:26 | 日記・エッセイ・コラム

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金融危機というのは、14番あたりが震源地ということはないでしょうが、マネーを操ってきたところにかわりはない。
一階がアレキサンダーのデパートで、地下がコートランド駅だった6番は既にありません。六千度の熱で圧縮されたわけです。
カパコとお昼よくいった空中レストランも粉砕。あすこからみるスタチュー・オブ・リバティーは絶景でしたけど。
あすこらへんは様変わりしたものの、その周りはそんなに変わってないでしょう。
10番12番13番14番15番に囲まれた一角は、ブロードウエイの見晴らしも良く、楽しい時代でした。
向かいはトリニティーチャーチなんですが、いつも心の中では懺悔してましたよ。将来の悪事の懺悔をあらかじめしていたということになるのでしょうか。。
ここらへんは週末はゴーストなタウンになるのですが、華金のファイブ・オクロック過ぎれば、コンサートのない日は、とりあえず、フルトン・マーケットまで歩いていって、そこの野天の広場で一杯ひっかけ、そのあとはなるようになる、みたいな感じで。
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バッテリーパークまでは歩いて10分もかからないので、ここもお昼休み散歩がてらうろうろしてましたね。自由の女神を同じ目線で見ることができてなかなかいい眺めです。
2番のシティーホールに行く途中に、J&Rという電気屋レコードショップがあって、ここも頻繁に行きましたね。CDの黎明期で日本のCDがかなりの価格で並んでましたね。初期はDENONレーベルのCDが多かったですね。そう言えば、TEACのX2000R、つまり4トラックのオープン・リール・デッキなんですが、あれ、ここで買いました。アメリカ仕様で電圧が高いのですが、現地で使う分には問題がありませんが、日本に持ち帰ると問題が出ます。昇圧機が必要になります。今でも動いてます。。
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ウォール・ストリートとリバティー・ストリートの間にチェンバー・ストリートというのがあるんですが、周りのビルがあまりに高く日が射すことはなく暗くてちょうどよかったんでしょうね。上から見ているとよくコケインのやり取りしてる人物を見ることができましたね。ブラジル産の純度100%近いのが5グラム程度で20ドルとかって聞いたことがあります。河童は仕事以外ではクラシックの演奏会のことしか(。...。。)興味がなかったので、どうでもよかったですけど。
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仕事に熱中すればするほど、華金の解放感は何ものにも代え難いものでした。
今の時代、六本木で真夜中、うろうろする西欧人の気持ち、よく理解できます。それにたむろする日本人の、特に女性の気持ちもだいたいわかります。田舎の子たちが東京に出てきただけで外国人とイージーに接触できる場所、そこにイージーにいけるだけで国際的感触をある程度味わうことができるんですね。これってほぼ錯覚なんですけど。でも悪くはないと思いますよ。積めばいいんです。経験を。。
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ということで、華金のコンサートは良し悪しなんですが、とりあえず今日は行く予定です。
おわり

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782‐ いよいよラインゴールド初日

2009-03-04 23:44:00 | 音源

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オペラパレスの東京リング・プロダクションの再演初日が3月7日(土)に迫りました。
何週間前からか予習を始めました。
テキストは2種類。フルスコアはドーヴァー。
あと、演奏の方は何種類か聴きました。
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ドホナーニの棒、クリーヴランド管弦楽団による目の覚めるようなラインゴールド。これ、印象に残ります。
クリーヴランドの透明な、澱を取り除いたような、クリアなサウンドは一聴の価値あり。
歌い手も飽くまでも同じ方針。性格的要素はない。
ファフナー、ファーゾルトの登場が異常にほこりっぽい、とか、最後の入城は昔風の、ベーム風の、勇んで飛んで行くような様相など昔っぽい表現、など部分的に時間が後戻り気味のところもあるが、総じてこのクリーヴランドの音の明晰さの前に吹き飛ぶ。
この組み合わせによる指環はワルキューレまで出来上がり、そのあとは、なぜか、ない。かなりおしい。
今からでもいいから完結させてほしいものだ。

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781- ジェイムズ・チェンバース 棒を振る 1984.4.15

2009-03-03 23:30:00 | インポート

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1983-1984シーズン聴いたコンサート観たオペラ、をだらだらと書いてます。

ニューヨーク・フィルハーモニックのほうは定期公演が終わりました。前回ブログでその最終公演の模様を書いてます。そのまとめはこの次に譲るとして、こんなのもあったようです。

1984415日 アジア協会

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ニューヨーク・フィルハーモニックの人事担当取締役のジェイムズ・チェンバースが棒を振った。

相手はニューヨーク・フィルハーモニック・アンサンブル。

曲はドヴォルザークのセレナードなど。

チェンバースはジュリアードでホルン、室内楽の教鞭をとっている。

(フィルハーモニック・ニュースより)

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どのような演奏だったのか聴いていないのでわからないが、ご本人の栄光のサウンドのように意のままに振ることができたのであろうか。

チェンバースの時代はヴァッキアーノ、コリリアーノ(おやじの方)とともにあり、バーンスタイン時代のホルン・ソロはほぼ全て彼のものではないか。(ヨゼフ・シンガーもいるかぁ)

今の時代、どこのオーケストラの音楽監督もシーズンのうち半分も振らないだろう。希薄な関係で、たとえば10年音楽監督をしていた、なんていってもオーケストラの歴史に名前は残っても音にはほとんど残らない。録音ではある程度残ったりするが、別に音楽監督だからといった演奏であるわけでもなく、ただその機会が他の指揮者よりも多いだけだ。

バーンスタインのニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督時代の演奏回数、録音回数はすさまじいの一語に尽きる。(HP開設をお楽しみに。)

その棒に全部つきあったのがジェイムズ・チェンバースということになるだろう。

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チェンバースが引退してフィルハーモニックの人事担当をしていた時代、事務所まで別件で出かけていって話をした記憶があるが、話というよりも売った喧嘩をなだめてもらったようなもので、その内容は恥ずかしくて書けないものだ。

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今のフィリップ・マイヤーズもフィリップ・スミスもグレン・ディクテロウも30年の長きにわたる。スタンリー・ドラッカーはその倍の60年でいまだに現役。

マイヤーズの音から昔のチェンバースの音をイメージできるのだろうか。

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780‐マーラー第3番 nyp1983-1984シーズン・ファイナル 1984.5.26

2009-03-02 23:30:00 | インポート

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このシーズンのこともだいぶ書いてきました。ようやく当シーズンのニューヨーク・フィルハーモニック定期公演最終日にたどりつきました。

シーズン自体はまだまだ続きます。nypはこのあとも別の企画もので演奏会そのものはひきつづきあります。

とりあえずnyp定期公演の千秋楽となります。



1984526() 8:00pm エイヴリー・フィッシャー・ホール

 

10,419回コンサート

 

マーラー 交響曲第3

 

メゾ、フローレンス・クイヴァー

ニューヨーク・コーラル・アーティスツ

ブルックリン・ボーイズ・コーラス

 

エーリッヒ・ラインスドルフ 指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック



今日は第142シーズン、ニューヨーク・フィルハーモニックの定期公演の最後の演奏会。

この最後の演奏会をマーラーの第3番で締めくくる。

100分余りのこの曲をひとつの弛緩したところさえ見せず、また疲れもみせずラインスドルフが指揮をした。

このネアカな交響曲がさらにいきいきと躍動した演奏になった。ラインスドルフの一見、超スローな指揮だけ見ていると曲がものすごくおそくなるのでがないかといった錯覚に陥ることがあるのだが、なんのことはない、おたまじゃくしをひとまとめに振っている大振りな棒なのでそんなにおそくなることはない。なによりも、これだけ引き締まった演奏になるとは不思議な気もする。トレーナーでならしているだけのことはあると思う。全部わかっているのだろう。

 

長大な第1楽章は約35分ほどかかったが、全く冗長性を感じさせることなく逆になぜかソナタ形式がくっきり印象づけられた。たしかに長い第1楽章に違いないが、マーラーがいろいろなことを試行錯誤しながら自分の世界を開拓している様がよくわかり、また、その過程自体、マーラーの場合、音楽の魅力そのものとなっている。マーラーの交響曲ではその長大さのなかにえも言われぬ魅力が存在する。

1楽章のモチーフはもちろんブラームスの交響曲第1番第4楽章の例のテーマからとられているわけであるが、これはとりもなおさずベートーヴェンの第9の歓喜の歌そのものなのであるからして、そもそもこの第3番は喜びのネアカ・シンフォニーなのである。

1楽章の終了とともに我々の気持ちは既にマーラーの天上にいってしまったようだ。

5分間の休憩の後、第26楽章に突入。この部分はまた約1時間かかる。

この曲の生演奏に接したのはたしか若杉弘/東京SO以来のはずだが、記憶の中から思い起こし聴き比べをしてみるとこの第26楽章もかなり変化のある楽章たちではあると思わざるをえない。生演奏の良さはこうゆう理解の直観的把握といった面でもいいところがある。また、レコードでは味わえない音と視覚の複合物としてマーラーの音楽をとらえることもできる。

2楽章‐メヌエット

3楽章‐スケルツァンド、(ポスト・ホルン)

4楽章‐非常にゆっくりと、(メゾ)

5楽章‐テンポは快活に、(コーラス)

      表情はピチピチと

6楽章‐ゆっくりと



26楽章にはさまれて、ポスト・ホルン‐メゾ‐コーラス、と順番に出てくることを思えば1時間は苦痛でもなんでもなく、音楽の喜びそのものとなる。

これがアメリカ人のように(一般的に)感覚が表面的と思われる連中にはなかなか理解できないというか感覚相違というかちょっと位相が異なったりするが、彼らは彼らなりにベースボールの観戦のように楽しんではいるみたいだ。

 

この素晴らしい曲、演奏により、第142回ニューヨーク・フィルハーモニック定期公演は終わった。時間が切断され、マーラー空間がはいりこんだエイヴリー・フィッシャー・ホールであった。最後にふさわしい演奏会でした。

おわり

 

 

 

 

 

 


779- プレヴィン ピッツバーグso. in New York 1984.5.23

2009-03-01 14:37:39 | コンサート


1984年5月23日(水) 8:00pm エイヴリー・フィッシャー・ホール

ロイ・ハリス 交響曲第3番

ジョン・ハービソン バレエUlysses’ Bow

ジョージ・ガーシュウィン コンチェルト
 ピアノ、アンドレ・プレヴィン

アンドレ・プレヴィン 指揮 ピッツバーグ交響楽団
プレヴィンというと写真などのイメージでいつも若々しい姿だけを思い浮かべているが、実際のところは、後頭部などは少しはげがかっていてやはり彼も55才なりではあった。
しかし、そのような感慨をもったのはステージに出てきて少し経ってからなのである。というのは着ている服がちょっと演奏会には不向きというか、このような場ではみかけたことがないいでたちで「あらー、若いなー。」と思ったからである。背広でも燕尾服でもなくチョッキでもなく、腕の部分のみを取り去ってしまった実にユニークなノースリーブ。その黒のノースリーブと白のドレスシャツのコントラストが鮮やかで、いかにも、いかにも。。始まる前からサイケデリック調、ポップアート風かな、いや全体には監獄風、クラシックの世界にはエキセントリック過ぎる?
プレヴィンはアメリカ的なギンギンギラギラなものよりもどうしてもイギリス的な粋な雰囲気の方を先に感じてしまうが。

曲は3曲ともアメリカの作曲家によるものであり、こちらの無知識というか、とにかく前半の2曲については作曲家も曲も全く知らない。曲のおもしろさではハービソンよりもハリスの方が上であったように思う。
現代音楽というよりも近代音楽においてはとかく技巧を駆使していると言ったおもむきが強く、バレエ組曲のようなものは冗長性の点でいやになるし、その点、ハリスの交響曲は曲の変化、それに時間の長さからいっても適当なものであったと思う。
そして、いつもアメリカの作曲家の曲を聴いて面白いと思うことが一つある。それは、どんな平坦なつまらない曲にも突然、アメリカ賛歌とでも言おうか、アメリカ的、裏のない、悪く言えばちょっとドンチャン騒ぎ的な部分が必ず出てくるということである。聴衆はあれにだまされる。
プレヴィンの指揮は、その指揮の若々しさに似合わず、あまり目立つこともなく、腕も比較的下の方で動いているようでもあり全く目障りとならない。そして時たま両腕をのばして後方の楽器に指示を送るとき、そのリーチの長さにみんなびっくりしてしまう。これだとやはりピアノを弾きながら指揮をしてもなんら問題は生じないだろうなぁと勝手な解釈をしてしまう。

さて後半のガーシュウィンであるが、十八番なのか、何の気なしにピアノを弾き、指揮をし、そして音楽を奏でた。粋なフィーリング。
ガーシュウィンやアメリカ人が体であらわすリズミックな感覚が一体どのようなものであるか、よくわからないのだけれども、このようにアメリカの聴衆がいつになく静まり返って楽しさを深く潜行させおとなしく聴いている姿など見たこともない。とにかくプレヴィンは第1楽章から音楽への乗りが素晴らしく、ちょっとクラシックの演奏会のいつもの雰囲気などというものは私にもいつになくどうでもよくなってしまった。
プレヴィンはここが良いここが悪いとかいってみてもつまらない指揮者であり、その全体的な、「センス」でもって音楽に乗っていく指揮者だと思う。第1楽章が終わった後の拍手も実に自然であったように思う。アメリカ人もいつもこのように静かに音楽を聴いてくれたらこちらもなんと幸福になれることだろうか。
それで、第2楽章のトランペット・ソロはジャズのエクスパートが吹奏するようなメロディーであり、なんとなく危なっかしいようなスリルを味わえた。

特に日本人はアメリカのビック5とか勝手に言ってオーケストラの性能を決めてしまっているけれども、ほかのメジャーのオーケストラ、たとえばこのピッツバーク交響楽団やロサンジェルス・フィル、、、、などもほとんど紙一重の差もないほどであり、いつでもビック5の位置にはりこめる。というよりももう日本人的感覚によるビック5などという呼び方はやめるべきだと思う。実力的な違いよりも土地、風土、そして指揮者によるオーケストラのそれぞれの違いを楽しむべき。
ピッツバーク交響楽団は、金管の安定度は他のアメリカのオーケストラ同様抜群であり、木管群もそれにも勝るとも劣らないほど素晴らしい。そして弦の音色もあるひとつの特徴をもっており、オーケストラ全体として曇りがかった、霧のようでもあり、とにかくニューヨーク・フィルハーモニックの音とはまるで違うものをもっている。
1986年からマゼールが音楽顧問というかたちでピッツバーク交響楽団にくるらしい。
おわり
翌日1984年5月24日のニューヨーク・タイムズにヘナハンの評が載った。紙面のほとんどが、このピッツバーグSO.のハウス・コンポーザーであるジョン・ハービソンの新作Ulysses’ Bowのことにさかれている。