1984年5月23日(水) 8:00pm エイヴリー・フィッシャー・ホール
ロイ・ハリス 交響曲第3番
ジョン・ハービソン バレエUlysses’ Bow
ジョージ・ガーシュウィン コンチェルト
ピアノ、アンドレ・プレヴィン
アンドレ・プレヴィン 指揮 ピッツバーグ交響楽団
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プレヴィンというと写真などのイメージでいつも若々しい姿だけを思い浮かべているが、実際のところは、後頭部などは少しはげがかっていてやはり彼も55才なりではあった。
しかし、そのような感慨をもったのはステージに出てきて少し経ってからなのである。というのは着ている服がちょっと演奏会には不向きというか、このような場ではみかけたことがないいでたちで「あらー、若いなー。」と思ったからである。背広でも燕尾服でもなくチョッキでもなく、腕の部分のみを取り去ってしまった実にユニークなノースリーブ。その黒のノースリーブと白のドレスシャツのコントラストが鮮やかで、いかにも、いかにも。。始まる前からサイケデリック調、ポップアート風かな、いや全体には監獄風、クラシックの世界にはエキセントリック過ぎる?
プレヴィンはアメリカ的なギンギンギラギラなものよりもどうしてもイギリス的な粋な雰囲気の方を先に感じてしまうが。
曲は3曲ともアメリカの作曲家によるものであり、こちらの無知識というか、とにかく前半の2曲については作曲家も曲も全く知らない。曲のおもしろさではハービソンよりもハリスの方が上であったように思う。
現代音楽というよりも近代音楽においてはとかく技巧を駆使していると言ったおもむきが強く、バレエ組曲のようなものは冗長性の点でいやになるし、その点、ハリスの交響曲は曲の変化、それに時間の長さからいっても適当なものであったと思う。
そして、いつもアメリカの作曲家の曲を聴いて面白いと思うことが一つある。それは、どんな平坦なつまらない曲にも突然、アメリカ賛歌とでも言おうか、アメリカ的、裏のない、悪く言えばちょっとドンチャン騒ぎ的な部分が必ず出てくるということである。聴衆はあれにだまされる。
プレヴィンの指揮は、その指揮の若々しさに似合わず、あまり目立つこともなく、腕も比較的下の方で動いているようでもあり全く目障りとならない。そして時たま両腕をのばして後方の楽器に指示を送るとき、そのリーチの長さにみんなびっくりしてしまう。これだとやはりピアノを弾きながら指揮をしてもなんら問題は生じないだろうなぁと勝手な解釈をしてしまう。
さて後半のガーシュウィンであるが、十八番なのか、何の気なしにピアノを弾き、指揮をし、そして音楽を奏でた。粋なフィーリング。
ガーシュウィンやアメリカ人が体であらわすリズミックな感覚が一体どのようなものであるか、よくわからないのだけれども、このようにアメリカの聴衆がいつになく静まり返って楽しさを深く潜行させおとなしく聴いている姿など見たこともない。とにかくプレヴィンは第1楽章から音楽への乗りが素晴らしく、ちょっとクラシックの演奏会のいつもの雰囲気などというものは私にもいつになくどうでもよくなってしまった。
プレヴィンはここが良いここが悪いとかいってみてもつまらない指揮者であり、その全体的な、「センス」でもって音楽に乗っていく指揮者だと思う。第1楽章が終わった後の拍手も実に自然であったように思う。アメリカ人もいつもこのように静かに音楽を聴いてくれたらこちらもなんと幸福になれることだろうか。
それで、第2楽章のトランペット・ソロはジャズのエクスパートが吹奏するようなメロディーであり、なんとなく危なっかしいようなスリルを味わえた。
特に日本人はアメリカのビック5とか勝手に言ってオーケストラの性能を決めてしまっているけれども、ほかのメジャーのオーケストラ、たとえばこのピッツバーク交響楽団やロサンジェルス・フィル、、、、などもほとんど紙一重の差もないほどであり、いつでもビック5の位置にはりこめる。というよりももう日本人的感覚によるビック5などという呼び方はやめるべきだと思う。実力的な違いよりも土地、風土、そして指揮者によるオーケストラのそれぞれの違いを楽しむべき。
ピッツバーク交響楽団は、金管の安定度は他のアメリカのオーケストラ同様抜群であり、木管群もそれにも勝るとも劣らないほど素晴らしい。そして弦の音色もあるひとつの特徴をもっており、オーケストラ全体として曇りがかった、霧のようでもあり、とにかくニューヨーク・フィルハーモニックの音とはまるで違うものをもっている。
1986年からマゼールが音楽顧問というかたちでピッツバーク交響楽団にくるらしい。
おわり
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翌日1984年5月24日のニューヨーク・タイムズにヘナハンの評が載った。紙面のほとんどが、このピッツバーグSO.のハウス・コンポーザーであるジョン・ハービソンの新作Ulysses’ Bowのことにさかれている。