嵐の中、吹き飛ばされながら、錦糸町まで。
ハーディングの棒は初観戦。
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2009年3月6日(金)7:15pm
すみだトリフォニーホール
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ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲
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ラヴェル ラ・ヴァルス
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ベルリオーズ 幻想交響曲
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ダニエル・ハーディング指揮
新日フィル
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初めてみるハーディングの棒、といっても棒は持っていない。腕と体で振るが、別にいやみなほど誇張された指揮ではなく全部納得のいくものだ。
ウィーン・フィルとのマーラーの10番のメロウな美しさがやたらとすごくて、それで今日観る気になったのだが、そのイメージとたがわぬ方向感に、なんだか素晴らしいものを得たような感じ。
一言でいうと、一部、草書スタイル、ほぼ全部一筆書き状態。これは新たな解釈スタイルなのか。
縦の線は全く気にしない。ひとつずつのフレーズがバーが独立してあり、それが彼の腕のもと生き生きと表現され、音楽の感興を生成し、結果、次の音、次のフレーズへのアクセルとなり、微妙に音楽が呼吸をしながら連鎖をかもしだす。
なんだかよくわからないが、オタマジャクシが息をしているようで、四角四面な表現とはかけ離れた微妙な息づかいが全体を支配。
音、音色、バランス、テンポ、そんなものがかなり考え込まれており、並みの指揮者ではないなぁ。
この一筆書きスタイル、このように細かく計算されたもの。それで、あとはプレイヤーの腕しだい、となるのだろうが、実はこの一筆書き、それ自身がプレイヤーの自発性を引き出す技になっていないか。やる気度があがっている。
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牧神は味わい深い曲だが、いきなりの超スローな出だしにフルートはうまくいったが、そのあとのホルンは、空中分解。艶のあるいいサウンドだけに惜しさも増すだろう。本人にとっても。
指揮者と関係なくフルートは吹き始めるが、だからといってフルーティストが決めたテンポ設定というわけでもないだろう。スローな上にハーディングが腕を回し始めてからはどんどんおそくなる。もしかして練習と違ったテンポ設定だったのかもしれない。
そのあとは、糸をもつれさせながら一フレーズ、一楽器、アンサンブル毎に、今そこにある音色を聴かせながら、いやいや先に進む。ユニークで味わい深い表現だ。
また、中間部の圧倒的変幻自在のテンポ感が、けだるさの中に躍動感をみせたりする。ややクリアすぎるオーケストラの音ではあるが、逆にこの明快さが、普段接していない指揮者のもとでは好結果をもたらしたりするものだ。ドビュッシーのウェット感が、理解できる輪郭で表現されていたように思う。前奏曲とは思えない充実した演奏。
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ラ・ヴァルスはプログラム前半の曲として聴いた記憶はない。後半に幻想を置いているのでこのようなプログラム・ビルディングになったのであろうし、ドビュッシーとラヴェルの対比、それに後半はベルリオーズ、という具合だから方針は明らか。あとは自身の草書、一筆書きスタイルに合致する表現ができそうなものを選曲。この日のビルディングは正解ですね。
それでこのワルツですが、曖昧模糊とした中から徐々に輪郭をおびてくる面白い曲。好きな曲です。
ハーディングの計算を感じたのですが、どうゆうところにかというと、頂点への音楽のもっていき方、頂点はスコア的なものではなく自身が感じている頂点、それも複数個所あると思われるが、その頂点に向かって音楽を進めている。こうゆう感じは、それぞれの頂点のところに達して、聴衆としては初めてわかる、そういったものなんでしょうが、逆に指揮者自身は自分の作戦なわけですから、最初からわかっているわけです。ですから、評論家連中がよく言う、先を見据えた見通しの良い音楽作り、などという表現はそれがわかる自分をほめているにすぎないのです。脱線しました。。
とりあえず、ハーディングは若い、といっておきましょう。
曲が持つ自然な沸騰感に上乗せされた趣向は際どい表現ながらこの曲のクレイジーで自暴自棄な側面を魅せてくれました。やっぱり瞬間のエンディングは音楽という流れの中にあっては破局的。アイヴスの交響曲第2番が遠くにこだまする。
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後半の幻想交響曲ですが、面白い配置を見ることができました。ハープが指揮者の後ろ、つまり一番手前に陣取り、協奏曲であればソリストのあたりの位置にセットされました。右側左側それぞれ2台。いまどきブラバンでもハープを使う時代ですから、一番手前に置いて見せっこするわけではないでしょうから、ハーディングの音楽に対する明確な意思と判断すべきでしょう。第2楽章が終わったところでお役ごめんで横に片づけられました。
その第2楽章ですが、ハープの音が前面で壁を作るのではなく、垂直にるつぼ的な沸き立つサウンドになっており、あの配置の妙が出たよう。ハーディングの解釈が生きた。
この楽章のエンディングは、ハープも他の楽器も、すんなり終わらず、かなり誇張され引き伸ばされた普読みになってました。このワルツの引き延ばしは曲の後半というものがなんとなく想起されて面白い。
ハーディングはこのような小技の多用というか明確な意志のもとにいろいろとやっているようだ。例えば、第4楽章の恣意的な弦の引き伸ばしボーイング、第5楽章で2個並べたチューバの強烈なアクセントに対し、他のブラスの滑らかな吹奏。
技をいたるところに使って曲が疲れてしまうということはない。ハーディングの解釈を聴くと、次に何が出てくるのかやたらと興味が湧いてくる。だからこちらの集中度も増し、結局、一筆書きスタイルに協力してしまっているようだ。
第4楽章のリピートには、はっとさせられる。2回首を切られそうだが、第5楽章の悪魔的笑いの表現とともに、音楽描写が見事。
面白さでつないでいく音楽進行が、結局、一筆書きのように聴こえてくるわけだが、もう一つ忘れてならないのは、しなやかさを強調した美しい弦、それにウィンド、ここらへんもハーディングの得意技だろうと思う。弦をしゃくりあげるようにあおり、プレイヤーもつられてグワンと一気にいく。呼吸が合っているせいか見事なピッチのもと、メロウな世界を表現させる。
ブラスをあおりたてた激しい幻想は、ちょっとズレズレになった個所もあったがハーディングはツボを心得ており決めるところは決める。これまたお見事。不発だったのは聴衆のなんとも気の抜けた拍手だけ、というわりと熱い夜だった。
外に出たときには嵐もやんでいた。
おわり
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