1777- 巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人*千葉馨 第5回:全く突然の死
第1回:日フィル入りがきっかけ
第2回:たいへんに普通の人
第3回:スケールとアルペジオ
第4回:慎重運転のカーキチ
第5回:全く突然の死
― ブレインは当時“売れて”いたんでしょうね。
千葉― ええ、レコーディングなんかして売れてたホルン吹きだと思うんですよね。ところがその人が、マネージャーがいなかったということもあるのかどうか、自分の出演料なんかも、どのくらいもらったらいいのかなんていうことに、まるっきり無頓着でした。おやじさんがブッシュ・ゼルキンなんかとトリオを入れているほどの人だから、もう少し出演料に敏くてもいいと思うのに、全然しらない。これはおもしろかったですね。あるマネージャーが、ブレインに、君、アメリカに行ってみないかとかいっても、ひまはひまなんだけど買ってもらえるかしらっていうぐあいで、ちっとも売り出そうということをしないんですね。だからカラヤンあたりに引っぱりあげられたのが運がよかったんでしょうか。
― ブレインの家族はどんな構成ですか。
千葉― 奥さんに娘さんが一人できたばかりでした。奥さんは音楽とは関係ない人です。ちょうどアパートに引っこしてきたときで、家具がなんにもないときで、おやじさんが吹いていたラッパなんかが、ニス塗って置いてあったりして。ラッパ吹くときも、すごくまじめなんです。すたすたと出てきて、ペコンとおじぎして、そのままパッと吹く人ですよ。気張ったりすることがぜんぜんないんですよ。まっすぐ立って吹く人ですよ。死なないとすればアメリカに行って、帰りに日本に寄るといってましたがね、残念でした。
―ブレインは一九五七年に三十六歳で自動車事故のため死んだんでしたね。どういう状況だったんですか。
千葉― 十一月から習って翌年の三月いっぱいまでやって、私は四月からドイツの学校に入ることにして、彼もヨーロッパのあちこちをまわるのでつき合えないから、ちょうどいいや、九月一日にはロンドンに帰っているからというんで、私も八月にドイツの学校が終わるからロンドンに帰りますといって別れ、八月三十日にロンドンに戻ったんです。その朝の新聞にデニス・ブレインが死んだと書いてあるんです。もう、びっくりなんていうもんじゃないですよ。信じられなかったですね。
エディンバラの音楽祭でシュトラウスの協奏曲を吹いたあと、その晩、徹夜で自分の車でロンドンに戻る途中だったんですね。途中の街の“魔のカーブ”とかいうところで、道が左に曲がっているところで、右側に大きな樫の木がありまして、この木にぶつかって、くちゃくちゃに。対交車も何もなかったらしいんですがね。安全運転の人がどうして事故を起こしたのかわかりませんね。それで日本と同じで、ブレインが死んだ、あんな安全第一のオート・マニアが、あそこで死んだ。あそこは毎年八十人だか死ぬのに、どうしてあのカーブをほったらかしておくんだなんて騒いでいましたがね。
―お葬式にはお出になりましたか。
千葉― ええ、彼の家の近くでありました。・・・・あんまりよく覚えていませんね(と、思い出すのがつらいらしく、あとは語らない)。
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父親ゆずりの名人
―ブレインの音楽はどんなふうのものでしたか。
千葉― 音楽も音色と似て簡単明瞭でした。そのかわり
・・以下、次回へ続く・・