河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2037- 第九、パーヴォ・ヤルヴィ、N響、2015.12.22

2015-12-23 12:54:30 | コンサート・オペラ

2015年12月22日(火) 7:00pm NHKホール

ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調  13′14′12′23′

ソプラノ、森麻季
アルト、加納悦子
テノール、福井敬
バリトン、妻屋秀和
合唱、国立音楽大学

パーヴォ・ヤルヴィ 指揮 NHK交響楽団


第3楽章がやたらと速い、とは感じなかったのですが、とにかくティンパニがポンポコと跳ねるような感じでそれがやたらと強調されている。弦のリズミック強調やピチカートなども含めスタッカート状態の切れ味で。まぁ、ユニークな解釈です。また全般的にフレーズのはざまにタメを作らない棒で音楽の息吹は有りません。ゼンマイのような流れです。これはこれでダイナミック。

妻屋さんは朝飯前、福井さんはいつものまじめ気張りで、シックな加納さん、派手ドレスの森さん、コーラスと一緒に開始前入場。

第3楽章のホルンソロは1番の福川さん。その前後の上と下も一人で吹いていましたので、指揮者解釈による奏者変更指示があったのかもしれません。

年末第九価格とはいえ高いチケットです。
おわり


2036- 3曲、デュトワ、N響、2015.12.16

2015-12-17 16:55:23 | コンサート・オペラ

2015年12月16日(水) 7:00pm サントリー

コダーイ ガランタ舞曲  17′
バルトーク 中国の不思議な役人、組曲  19′
Int
サン・サーンス 交響曲第3番ハ長調  11+10′、8+7′

シャルル・デュトワ 指揮 NHK交響楽団


この12月、デュトワはサロメ、マーラー3番と名演奏が続きました。締めはお得意の3曲構成のプログラム。
プレイヤーのほうは名演奏後の燃え尽き症候群が少し見られましたけれど、デュトワの棒はそうとうに厳しいものなのでしょう、ここにきて少し緊張の糸が少し緩んだのかもしれませんね。

それにしてもエネルギッシュな棒です。高年齢ものともせず上下移動が大きいわかりやすい棒。コダーイのダイナミックな色彩感もさることながら、マンダリンが後半にかけてまるでハルサイのような具合になっていくのが凄い迫力。ずっーとオーケストラを押していく、このドライブがやっぱり並の指揮者ではないとあらためて感じます。
緊張で張りつめていた前2週のオケ、快活さがだんだんと戻ってきます。やっぱりプレイしているのが一番、そんな雰囲気が出てきました。

サン・サーンスはその精神的アンプリチュードが安定した演奏と、手に取るようにわかる。
オーボエ青山さんは茂木さんよりもビブラートが濃く、個人的にはこちらが好みです。
この曲は各楽章2部構成でその違いというか輪郭がよくわかる演奏で、弦の落ち着いたアダージョ、ダイナミックなブラスセクション、自在な緩急、よく整理された演奏でお見事でした。

サン・サーンスのホルンの出番は3番4番がメインですので、プリンシパルはコダーイの冒頭、あすこに焦点を置いた吹きになったのでしょうか。

いい演奏会でした。
ありがとうございました。
おわり


2035- ルーセル、バッカスとアリアーヌ、ブルックナー0番、ミンコフスキ、都響、2015.12.15

2015-12-16 02:40:05 | コンサート・オペラ

2015年12月15日(火) 7:00pm サントリーホール

ルーセル バレエ音楽「バッカスとアリアーヌ」第1組曲、第2組曲 17′、20′

Int

ブルックナー 交響曲第0番ニ短調 (ノヴァーク版)  15′13′6′10′

マルク・ミンコフスキ 指揮 東京都交響楽団


0番は1番と2番の間の作品。
2番とは桁違いにうぶな曲とは思いますが、ミンコフスキの作品解釈は、このあと2番から9番までの素晴らしい曲があるのだよ、それらを知っているよね、そのうえでこの0番もこう鳴るべき曲なのだ、と言っているような素晴らしいものでした。例えば第2楽章の大団円と言いますか、大きく弧を描く様なスケールの大きな弦の響きはまるで4番とか7番でも聴いているようなおもむき。早い話2番以降の響きの世界を体現している。
全体に力感があり、大きなフレージング多用で、また強弱の落差も大きい。弱音フレーズでの細やかな音の表現まできっちりと。チェロとベースの雄大な響きは特筆すべきものでした。聴いていて脊髄に快感が走りました。スケルツォのブラスセクションはバリバリ鳴らして相変わらずドライフラワーみたいなもので深みがないが、表面的なダイナミズムの世界はブルックナーの特質の一点も示しているわけでそういう意味ではそんなに悪い話でもない。

ミンコフスキはあとの曲をイメージしていてフォルムはそんなに追いかけていないと思われるのだが、後続曲をイメージすれば自然に形式感が出てきて、ブルックナーの構造はそれなりに輪郭が浮き上がってくる。
第4楽章は序奏があって、主題は2つのみ。第1楽章は3主題かろうじて見えるが、ブルックナー比率から言って、展開部は極度に短いと思われる。提示部と再現部がロング、それにコーダも。第1楽章が一番スケールが大きく、聴く方も構造の聴き応えがある。手応え十分です。
緩徐楽章の弦のうったえは素晴らしく、ブルックナー初期の作品のウエットな響き楽しめました。エンディングもものすごく印象的。ミンコフスキのナイーブな神経を見る思い。

ミスターSとはまるで別世界のブルゼロ、色々と楽しめました。


前半のルーセルは明るい響きの曲でシンフォニーにあるようなエンジンのかかるような前進具合や、あまり瞑想しない静けさなど印象的。このオーケストラにあっている響きですね。収録して商品化できそうな曲です。
おわり

PS
ミスターS、読響、ブルゼロ

2014.10.9

2008.9.22


 


2033- パーセル、妖精の女王、寺神戸亮、レ・ボレアード、2015.12.13

2015-12-13 21:10:41 | コンサート・オペラ



 

2015年12月13日(日) 2:00-5:40pm 北とぴあ さくらホール

北とぴあ国際音楽祭2015プレゼンツ
ヘンリー・パーセル作曲
宮城聡 プロダクション

セミ・オペラ 妖精の女王    (全5幕 セミ・ステージ形式)

歌詞英語、台詞日本語上演、日本語字幕付き(歌詞部分のみ)

第1幕+第2幕+第3幕  1時間48分
Int 20分
第4幕+第5幕  1時間17分


キャスト
俳優:静岡県舞台芸術センター

レ・ボレアード(歌手)
ソプラノ、エマ・カークビー、染矢熱子、名倉亜矢子、広瀬奈緒、山崎千恵
アルト、ヒュンター・ファンデヴェン、田中栄吉、中嶋俊晴、波多野睦美、眞弓創一
テノール、ケヴィン・スケルトン、坂口寿一、根岸一郎、福島康晴
バス、大塚雅仁、大山大輔、小笠原美敬、小酒井貴朗

レ・ボレアード(楽器) 略

指揮 寺神戸亮

 


セミステージ形式。楽器群は舞台の前方に位置し暗くして、後方は一段高くして舞台イメージを設定。
作曲1600年代で、様式が固まる前時代のもの、セミオペラ様式。ここらあたりなじみがないためウェブを色々と探して予習。このサイトが一番勉強になった。

パーセル 『妖精の女王』 における詩と音楽
(または、宇都宮大学 学術情報リポジトリ(UU-AIR)の検索にパーセルといれて検索)

ストーリーは真夏の夜の夢のことなので、こちらとしてはあとは様式感を頭にインプット。
でしたが、音楽の前にいきなり劇から始まる。今様オペラ演出並の読み替えや過剰演出なのかといきなりインパクトを受けました。まぁ、前出しで出演キャラクターの紹介みたいなものですね。オペラだと序曲中にやったりします。
セミオペラ様式だと、歌い手、劇の俳優とその声、別の方々がやるわけで、また歌い手もシーンにより変わったりするわけですから、要は一番ポイントになることはそれに一番すぐれている人が行うわけですから、ここらあたり日本の黒子とは別の方針で出来上がった上演の歴史というものを感じたりしながら、役どころはダブるわけで、序曲中に音楽が鳴っている中での紹介ではなく、事前の出しでどっちを出してくればいいのかというあたりは悩ましいものでもなくて俳優の出番となるわけですね。
歌唱は英語、せりふは日本語。字幕は歌唱のときだけ出ます。このような方針はいいですね。メトでのこうもり公演を思い出しました。歌はドイツ語、セリフは英語。オペラ様式が出来上がった時代のもので、歌、セリフ同じ人間がやっていました。

それで、その様式の時代を踏まえたうえでこのセミオペラの進行を予習しておいたのですが、例の紹介サイトとは異なるというか、あれはファンダメンタルな知識として是非とも必要なものと感じました。そのうえで、この日の上演では素直にもっと作品に内包された様式感を感じたいと思った。前半は特にそう感じました。さらに、幕を続けて上演、幕の切れ目がわからなかったのは自分としては痛かった。なにかミュージカルのリメーク版を観劇しているような具合で、そうとうにズレを感じました、前半の1,2,3幕は。

後半4,5幕は、もうこれで楽しむしかない、楽しむのがベストと気持ちを切り替えました。
劇のほうも途中からカメラ記念写真とか、日本の神式結婚式、髪を結ったカークビー、等々、和式様式ごちゃごちゃとてんこ盛り、時代感覚もわからなくなり、俳優の劇のほうも過剰な笑い取りアクションが頻発、エンジョイ。

ですので、別の演出でもう一度観てみないとああだこうだという話しは出来ませんね。
楽しい観劇でした。
ありがとうございました。
おわり







2031- マーラー3番、シャルル・デュトワ、N響、2015.12.11

2015-12-12 10:51:54 | コンサート・オペラ

2015年12月11日(金) 7:00pm NHKホール

マーラー 交響曲第3番ニ短調 32′10′18′9′4′25′(全楽章アタッカせず)

アルト、ビルギット・レンメルト
女声合唱、東京音楽大学
児童合唱、NHK東京児童合唱団

シャルル・デュトワ 指揮 NHK交響楽団


デュトワの指揮するN響のアンサンブルの精度の高さは尋常ではなく、その昔から、ずっと昔から言われているウィンドアンサンブルのうまさはこの日も唖然とするような具合で、例えば、マーラーのいたるところに出てくるやにっこい長めのクレシェンド、この揃い具合も異常ともいえる精度と均質さで、ブレンドされ一つとなった単色とは別の色合いのサウンドがまるで一つの楽器にでもなったかのように多彩なニュアンスで奏される。驚きました。
8本のホルンも整然としたもので、それが官僚の論理みたいな吹き按配でないのが心地よい。積極的な精緻バランスとでも言うべき自己主張された美しさは、プリンシパル1人のみならず音質の同色性も含めた全員アンサンブルの勝利の音色(ねいろ)とさえ感じる。

ニ短調の曲は第9、ブル9、シュマ4、など挙げたらたくさん出てきそうですが、なにやらやにっこい曲が多い。一筋縄ではいかない、聴かせどころのツボどこらあたりあるのかなと。
デュトワのGM3はその振幅の大きさですべてを吹き飛ばしてくれました。素晴らしく明るくクリアで明瞭(全部同じ意味か)、そして繊細さから豪快な響きまで見事な表現力の幅の大きさ。コントロールと開放の見事さ。それがこのアンサンブルで奏されるわけですから、もう、気持ちも解脱状態。
デュトワは、たまにほかの指揮者で見かける、自分が一番感動して振っている姿の棒、これが皆無。それと、ルーチンワーク的な振りも皆無。
両腕を大きく上下させて振る棒はプレイヤーが見やすくて演奏しやすい棒と思います。指揮棒を持っていますのでその上下の振幅はさらに大きく見え、上下の切り込みの深さは作品への食い込み具合と同じだと思ってしまうような説得力。
第5楽章終えたところでアタッカ演奏する指揮者が多いのですが、彼は一服置いて、ここは棒も持たず横に大きく振る勢いでその流れを重視したさばきはオーケストラ全体の響きになる。横に流れていく終楽章はハーモニーが殊更美しく聴いていて息もできない。
こんな演奏なら何楽章まであっても構わない。

第1楽章、ブラームス1番の終楽章主題から始まるホルンの吹奏、よく合ったアンサンブルが続きます。拡大されたソナタ形式はロングなものですがその長さを感じさせない。冗長なところがまるでない、弛緩するところのない見事なオーケストラアンサンブル、波打つダイナミズム、クラクラする美しい弦。ソナタ形式も満足の雄叫びをあげている。
第1楽章終わったところでレンメルトが入場、もう二楽章待たないと出番は有りません。
第2楽章は磨かれた素朴さでマーラーの実は人工的な自然さがよく垣間見れる。
第3楽章は、5番の3楽章に続く様な中間楽章の異様な長さを感じさせるのだが、このロング楽章もデュトワは飽きさせない。トランペットのプリンシパルは3楽章始まる前にステージかみてにひっこみ、そこでポストホルン。この部分は楽章後半の活躍になるわけですけれど、響きの柔らかさ、バランス、スキル完成度、なにも言うことがない。落ち着いたいい楽章となりました。多彩な表現の別の一面を見たような気になりましたね。
第4楽章でレンメルトのソロを短いながら味わうことができたのはいいことでした。大柄な体躯、オペラとはまた違った、(オペラに比べれば全部簡単よこんなもの)、といった雰囲気がまるでないオーケストラル伴奏で精緻に神経が透けて見えるような歌はコンセントレーションの高さがもろに出たものでこれまたお見事の一語に尽きる。デュトワのさりげない、でもツボを外さないソリストへの指示も含めたオーケストラ伴奏の的確さ。
第5楽章へはアタッカしません。一息置きます。デュトワは全ての楽章でこのようにシンフォニー作品にふさわしい間を置きながらの指揮です。各楽章は独立した一つのエレメントであって、全体像は終わった後にいつまでも構築物として残る。そうゆう姿をみせてくれます。
1時間10分ほどまってようやく合唱が出てきます。明るいサウンド。70分の内的コントロールが一気に開放。短い楽章はその片側の明るさだけのもの、表面には出ないもう片側も感じさせてくれます。解き放たれた合唱は美しく歌われました。
棒を置いての終楽章はなにやら厳かなという雰囲気はありません。デュトワの飽くまでもスコアにリアリスティックなさばきです。棒を置いた振りはむしろ大きく横に広がりを魅せ流れていく。

この日の編成は合唱も含め大きなもので、NHKホールの前のほうの席を何席つぶしているのか知りませんけれど、ステージが随分と前のほうにせせり出ている。これだけオーケストラが前に出てくると、いくらこのホールでも結構、それなりにいい音、前に音が出てきますから。実力がもろにわかるホールですがこのオケなら問題は無い。相応なエコーもありますね。
この日の演奏、フライングは有りませんでしたけれども、デュトワが最後振り終えて動かずにいる中、無造作で無神経な拍手がバチバチと鳴り始めました。デリカシーがないというか、ホールの空気感を変えたアトモスフィアというものをわからない、まるでCDでも聴き終えたようなバチバチは悪趣味でしかない。

よいものは徹底的によく味わいたいと思った一夜でもありました。
よい演奏ありがとうございました。
おわり


2030- タコチェロ協1、スタドレル、チャイ1、ミヒャエル・ザンデルリンク、都響、2015.12.10

2015-12-11 00:07:38 | コンサート・オペラ

2015年12月10日(木) 7:00pm 東京文化会館

ショスタコーヴィッチ チェロ協奏曲第1番変ホ長調  6、12+6+4
 チェロ、アレクセイ・スタドレル
(encore)
バッハ 無伴奏チェロ組曲より  3′
Int
チャイコフスキー 交響曲第1番ト短調 冬の日の幻想 11′10′8′12′

ミヒャエル・ザンデルリンク 指揮 東京都交響楽団


スタドレルというチェリストはお初で聴きます。
4階で聴きましたが都響に負けず音がでかい。第3楽章カデンツァなどびっくりするぐらいのサウンド。
それよりも印象的なのは、一見すると素朴と言ってもいいような、やつさない、地に根を張った弾きっぷりで一歩一歩前進していくような具合で、派手さは無くまた知ったかぶりもない。自分のプレイを自分で聴きながら噛みしめながら進めていく。そのようなスタンスはよくわかるのだがややもするとフレーズが薄められて空中分解してしまうのではないか、といった危惧も感じない。これは見通しがいいというか、最初の部分のプレイ時点で最後までが見えているからにほかならない。曲を理解しつくしているということか。
この曲は構成感はよくなくて気まぐれモードなところがあり油断すると散漫となってしまう。このソリストは上から一度に全体俯瞰が出来るソリストと思えた。
第1楽章のアレグレットの骨太の軽快感は魅力的なものですが、重心はヘビーな第2楽章とカデンツァ楽章と呼べそうな第3楽章に多くの力点を置いている。第1楽章アレグレットの歯切れの良さとは別の面、潤いのある幅広く包み込むような中低音域の響きがものすごく魅力的。
都響の伴奏はティンパニが硬すぎて耳障り、ソロに水を差している。メリハリあるとも言える。またチェロにからむホルン1本、淡白すぎる。

後半のチャイコフスキー。
昔、ブルーノ・ワルター指揮コロンビア響のLPが出始めの頃、あれはステレオ録音で右左の分離があり過ぎで真ん中が空みたいな雰囲気があったが、それよりも何よりもキンキンいう高音域があまりにヒステリックで辟易したものだ。
今日の都響を聴いていてそれを思い出した。あまりに硬くてドライ、線一本ずつ見えてくるのはこのあまり演奏されない曲を理解する上では輪郭が明確になりわかりやすいというのはあるけれども、そんなことより、硬くてドライな合奏が、乖離した一本線のようなサウンドで、マスでもやせて聴こえる。そしてふと思ったこと、それは、オーケストラのプレイヤーがもしかして、なんでこんな乾いた音しか出せないのかな、と自分たちに息詰まり感を感じながら演奏しているのでないかと思えたこと。
焦燥感です、ウェットな潤いのある音色がでないことによる。

ザンデルリンクの棒は第4楽章の導入部の念の入れようを聴けば分かるようにフォルム重視です。この曲は形式で下支えして演奏した方がより強固なスタイルとなる。
2年前のドレスデン・フィルとの公演、今年のN響との演奏。同じような雰囲気です。
おわり

PS

1490- ベートーヴェン7番、ブラームス1番、ミヒャエル・ザンデルリンク、ドレスデン・フィル

1794- シューマンpf協、シャマユ、ブルックナー4番、ミヒャエル・ザンデルリンク、N響2015.4.23

 


2029- サロメ、バークミン、デュトワ、N響、2015.12.6

2015-12-06 19:06:54 | コンサート・オペラ

2015年12月6日(日) 3:00pm NHKホール

シュトラウス サロメ (コンサートスタイル) 100′

キャスト(in order of voice’s appearance)
ナラボート、望月哲也、テノール
ヨカナーン、エギリス・シリンス、バスバリトン
サロメ、グン・ブリット・バークミン、ソプラノ
ヘロデ、キム・ベグリー、テノール
ヘロディアス、ジェーン・ヘンシェル、メゾ

シャルル・デュトワ 指揮 NHK交響楽団


前から2列目かぶりつきで観ました。
スタートレックのスポックのようなヘアスタイル、何頭身かよくわからないスレンダー美人、不敵な笑顔で登場、なんだか、これだけで、もう既に、バークミンのワールドですね。秘めたエキセントリックさ、ホントはアブナイ感じ。サロメワールドが脳内で半分出来上がりました。ビアズリーのクライマックスがレントゲン写真のように脳内に貼りつきました。聴く用意が出来たというところか。

デュトワ、N響のサロメと言えば、ビビッと思い出すのはあの稀代の絶演、2003年のエレクトラ。その初日、エリザベート・コーネルが登場した時のNHKホールのどよめきは忘れられない。草木もなぎ倒す歌。そして姉に匹敵、追い越す勢いのこれまたとんでもない歌唱だったのがフランソワーズ・ポレの代役エヴァ・マリア・ウェストブルック。最後ちょこっと、エキストのジークフリート・イェルサレムはラスト10分に現れ3分の歌唱。
と。

エレクトラはサロメとは違った厳しさのある音楽、あえて言えば迎合しない音楽。そのように感じる。サロメはいたってシンプルなストーリーで、どれだけ深彫りするか、えぐるか、にかかっている。まぁ、比べるような話ではないがどうしてもあれを思い出してしまいますね。

サロメ、このタイトルロールは麻雀でいえば裸単騎みたいなものです。逃げも隠れも出来ない。覚悟と度胸が勝負の分かれ目。
フィフスエレメントに出てくる例のソプラノ歌手のような細身の人が歌うサロメ、昔だったら馬力勝負の馬力の力感が体躯にそのまま出ていたものだが、今はそんな時代ではないということですね。細身で自由自在。びっくりするぐらい大きな声で歌われます。均質な声、揺れの無い歌は圧倒的で、ひとつの流れる線のようなものでそこからさらに光が出ている。光りうねる線。どこで息を整えているのかまるでわからないシームレスな歌唱、唾を吐く劇的な歌唱ではないのにそのドラマチックな世界の創造には別次元のエモーショナルを感じる。サロメが乗り移ったか、彼女の表現するサロメは毒々しくない。妙にエキセントリックで正確に狂っている感じ。一心同体な話か。何度説得されようがヨカナーンの首を何度でも求める気持ち悪いセリフのゾクゾク感。リアルすぎて思わず身震いしました。
サロメの狂気は全く今風なものでスッキリ明快そしてクレイジーに。聴衆、劇場のすべての人たちが彼女に支配されてしまっている。それは正しいこと。そんな雰囲気がホール全部を支配。すごいものです。

前半に歌い尽くすヨカナーン役のシリンス。彼はワーグナーを中心にもう何度も聴いていて、深いバスバリトンがものすごく魅力的。長身でシリアスな歌、役になりきる歌唱でずっと好印象です。
ヨカナーンの生真面目さを前面に出すというよりなんだかご本人の性格がそのまま出ている感じですね、非常に激情的な歌となりましたが安定度抜群、シリアスな役どころお見事。

ベグリー、ヘンシェルは似たものどうしみたいなところがありますが、性格の裏と表ですかね。テノールのベグリーは全開というわけではないと見受けました。劇的でありながら真っ当な役どころをよくこなしていたと思います。
ヘンシェルは2003エレクトラのときにも母親役で出ていますね。役どころをわきまえたサポート風味の歌唱で出しゃばらない。いいと思います。

この4人の出来栄えしだいという話ですけれど、あれだけ完璧にバークミンにきめられると、脇役の日本人たち、一緒に歌っている一体感よりも、役が違うとか声種が違うとか関係なく、もう、やる気が失せるのではないか、と思った。
圧倒的なバークミンでした。

デュトワは自分の指揮に感動しながら振ると言ったところが皆無で、またルーチンワーク風なところも毎度皆無、上下に腕を大きく振る姿はプレイヤーにとってわかりやすいものだろうと思う。N響からあのエレクトラのときと同様な黄色いギザギザ絶叫サウンドを引き出していたのはさすがとしか言いようがない。
もう一度、このオケの音楽監督をやったらどうか、これほど息の合ったコンビネーションはそうそうないと思いますよ。

バークミンはシーンごとに、ポーディアムの右で歌ったり左で歌ったりと、いいサービスしていました。
何度でも聴きたいですね。
今日の絶演ありがとうございました。
おわり


2028- 仮面舞踏会、藤原歌劇団、2015.12.5

2015-12-06 00:44:31 | コンサート・オペラ

2015年12月5日(土) 2:00-5:20pm オーチャードホール

藤原歌劇団 プレゼンツ
ヴェルディ 作曲
粟國淳 プロダクション

仮面舞踏会

キャスト(in order of appearance)
1.サムエル、久保田真澄(Bs)
1.トム、小田切貴樹(Bs)
2.オスカル、高橋薫子(S)
2.リッカルド、西村悟(T)
3.レナート、牧野正人(Br)
4.判事、納谷善郎(T)

5.ウルリカ、鳥木弥生(Ms)
6.アメリアの使者、狩野武(T)
7.シルヴァーノ、和下田大典(Br)
8.アメリア、小川里美(S)

藤原歌劇団合唱部
佐藤正浩 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

(タイミング)
前奏曲 4′
第1幕第1場 18′
SB 2′
第1幕第2場 31′
Int 20′
第2幕
前奏曲 2′
幕 28′
Int 20′
第3幕第1場 27′
SB  2′
第3幕第2場 24′


なんで仮面舞踏会には階段舞台が出てくるのだろうかという既視感のもと始まりました。
第1幕はゆるくて点と点の世界で、それもつながりのないもの。さえない幕でした。
2幕になり二重唱、三重唱と引き締まってきた。ヴェルディにはやっぱりドラマチックドラマがよく似合いますね。
マスカレードの舞台、3幕も暗い。最初の幕から暗いトーンのシーンが続きます。この3幕でもきらびやかさよりは暗さを強調しているように思えます。
リッカルドは露と消え、レナートは生きる。ヴェルディの仮面は後続ストーリーを覗いてみたくなりますね。

リッカルド役の西村は体躯もさまになっていて堂々としたものだが、思いっきり声を出せればもっとよくなる。本番場数をバンバン踏んで思いっきりの度胸声を聴きたいものです。

指揮の佐藤はオペラのツボを心得ている、ただ、歌い手たちが全員いうことを聞いているわけではなさそうだなという感がぬぐえない。

全般的にあまり水準の高い内容ではありませんでした。


この団体も1000円プログラム販売ですが、これを買わないとキャストもあらすじも何もわからない。1枚もののキャスト表がない会社。どうなってるんでしょ。
おわり


2027- シベリウス、5,6,7、ヴァンスカ、読響、2015.12.4

2015-12-04 23:03:54 | コンサート・オペラ

2015年12月4日(金) 7:00pm サントリー

オール・シベリウス・プログラム

5番変ホ長調  14′、8′+9′
Int
6番ニ短調  9′、7′、3′+9′
7番ハ長調  21′

オスモ・ヴァンスカ 指揮 読売日本交響楽団


昔、ヴァントがN響でブルックナーを振り始めた頃、これは単に作品をなぞった棒ではなくブルックナー解釈の移植だと思った。もっと言うと、当時の感覚だと田植えとか畑の耕しみたいな一種名状し難い感覚にとらわれたものでした。道具はある、肝心な、もの作りを今するのだ、そんな話です。
それが実現された形は、指揮者のブルックナー完全理解は当たり前の前提であって、その実現方法の一つとしてオーケストラの磨き上げが必須なんですよ、というあたりのことも明確に感じられた、ブルックナーの真っ当なインターナショナル化です。
この二つのことをヴァント&N響のブルックナーでは強く感じたものでした。

そのままの話ではありませんけれど、この日のヴァンスカのシベリウスではそのようなことを強く思い出しました。一曲目の5番の第1楽章これは完璧なシベリウス像ではないか。
色々な断片が次から次と出てきますけれど、断片と言っているのはその時の話しであって結局全てつながっていく。有機的結合と言う話ですけれども、そのしょっぱなの第1楽章の全部出し、ここらあたりの出しかたが圧倒的な説得力。
展開部にあたるところのヴァイオリンの半音階主題、滑らかに入っていきます。そしてモザイク風な管のトリルとシベリウス的イディオムといえるしゃくりあげ締め、ここ、圧倒的でした。さらに特筆すべきはゲストコンサートマスターの荻原尚子さんの見事な弾きと統率力、合わせて、ものの10分も経たないうちに巨人のようなシベリウス演奏に悶絶。
この楽章の後半スケルツォへの移行も冷静にして自然、全く素晴らしい棒というしかない。そして駆り立てて熱狂のエンディング、でもまだ先があると言わんばかり。フォルムを感じさせてくれます。ここの主題の主張と結合、形式感の見事さは、すべてお見通しのヴァンスカが成しえる技でしょうね。
第2楽章、聴くほうはかみしめて聴く番です。ホルンはプログラム前半のこの5番と後半でプリンシパルが交代していましたが、日橋さん率いるこの作品の演奏、第2楽章の中間でホルンハーモニーが少し濁ってしまうところがありました。すぐに立ち直りましたけれど。牧歌的な楽章なれど、する方はテンションの持続がポイントです。
第3楽章はいきなり締めのような緊張感で始まり、第1楽章のスケルツォエンディングが移ってきたかのよう。それが中間部からの展開は中低音域を中心にまるで人間が息でもするような具合のフレーズが印象的。ヴァンスカの移行は非常に滑らかで見事の一語に尽きる。音楽が生きている。
そして圧倒的な空白、打撃音の響きの正しさをこんなに正確に味わえる瞬間というのはクラシックの作品数々あれどそんなにない。完璧な余韻を何度も味わいつつ、明確にずらしたティンパニが音楽のフレームを見事にえぐりだし曲を終える。あぁ、見事。

後半の最初の曲、6番も大きかった。特に第4楽章は巨大と言ってよく、むしろ演奏の激しさが壮絶で言葉もない。前半3楽章も終楽章にバランスしたもので縁取り感覚、フレームのクリアさですね、明確な輪郭で、それが余裕の細部指示は既にリハーサルでブラッシュアップの極みに達していての棒指示であることがよくわかる、この説得力の強さ。

この6番の3,4楽章はアタッカで奏されました。第2楽章の冒頭のティンパニは、あとで考えると第7番の冒頭と同じとわかるのですが、ヴァンスカは6番7番の親近性の強調よりも、独立した作品としてポジションを確立していることを主張していたと思います。シベリウスのイディオムは打楽器だけでなく打撃のアクセントなど調性が異なっていても同じようなモードを感じさせてくれるところが多くありますけれど、この6番の巨大な演奏による圧倒的存在感は、とりあえずそんなことは横に置いてこれを聴け、と彼は言っているように思えました。

最後の7番。2回ある雄大なトロンボーンソロのうち1回目のソロのあとホルンをはじめとしてブラスが流れ込んだ後のティンパニの打撃。この1回目は譜面では、ピアノからクレシェンドして叩きつけるところ、そこには強弱記号がありません。ヴァンスカはかなり強めの指示で、このような解釈はムライヴンスキー以外では初めて聴きました。2回目のほうは弱めの指示が譜面にあり、ヴァンスカは指示通りの聴こえないぐらいの弱さ。ちなみにムラヴィンスキーは2回目もスコア無視の大打撃をしています。皮が破裂してばちが飛びそうなぐらいの。
また、トロンボーンソロが始まるとムラヴィンスキー、レニングラードは他の楽器を信じがたいほどのピアニシモまで落とします。このようなことが出来るのは世界ひろしと言えども当時のこのオケだけにしかできない絶対能力で神がかっている。と、つい、ムライヴンスキーの演奏をどうしてもしゃべりたくなってしまう。

ヴァンスカ、読響の7番は個人芸の集積というよりも合奏、統一感のとれた同じ呼吸の合奏、それが素晴らしい。薄い膜でも張ったかのような、比較的肉厚な弦なのだが揃ったアンサンブルでぶ厚い透明さみたいなものを感じる。読響の特質だろう。
最後までぶ厚い透明感で押し切っていく。シンフォニーの面影はもはやなくて交響詩でもない、なにかシベリウスの全エキスだけで出来ているものを飲まされているような味わいだ。最後、鮮やかな転調を繰り返し、スコアにある正確な音価レングスを保ちつつ極度の緊張感をもって、さっ、と終わる。お見事。
素晴らしい演奏ありがとうございました。
おわり

PS
1251- シベリウス交響曲第7番 演奏は曲を超えた。異形の絶演!ムラヴィンスキー&レニングラード・ フィル


 


2026- jbPfCon2、オピッツ、ewkシンフォニエッタ、ゲッツェル、神奈川フィル、2015.11.30

2015-12-01 18:24:50 | コンサート・オペラ

2015年11月30日(月) 7:00pm ミューザ川崎

ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調  18′、9′、13′+8′

Int

コルンゴルト シンフォニエッタ  13′9′9′16′

(encore)
ヨハン・シュトラウスⅡ 雷鳴と電光 3′

サッシャ・ゲッツェル 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団


お初でお目にかかる指揮者です。前半後半ともに勝負プログラム。
ヘビーで大きい曲2曲と思いきや、そんなにヘビーではなく、大曲ながら重心が下がらない明解な演奏でした。

オピッツは、この前の2015.11.25に聴いたばかり。そのときはモーツァルト、この日はブラームス。
モーツァルトのときと同じように明晰なサウンド、音価が几帳面に整理されていてブラームスの埃のようなものが微塵もない、きれいな演奏。音が締まって短くなると隙間がかえって雄弁になる、面白い現象だと思います。手はそれほど大きくは見えません、指先をちょっと丸めるように、ところどころ引っ掻くようにうまくさばいていく。ここだけ取れば、ブロンフマンと似た弾き。
第4楽章の重くしない美しいハーモニーに乗せて迫る大詰めは、全く大詰めではなく、時が来たから終わるかというエンディング、この4楽章をうまく終わらせるのはなかなか難しいと色々な演奏を聴いて思いますが、この日の演奏は自分のイメージによく合うものでした。
思うに、指揮者が細部耽溺型とちょっとちがう、細部ハーモニー噛みしめ型で味わいが深い。ブラームスの美しいハーモニーが思う存分奏でられる。この美しい音楽を奏でるための停滞みたいなものでじっくりと味わえる。ビロードのような響きの中、音がなびきながら終わる。
この指揮者はここだけではなくて、第3楽章も同じでハーモニーの噛みしめが深くてバランスされた響きを十分に楽しめる。2楽章のように縦ずれしてしまう箇所もあったことはあったが、これはオーケストラに帰されるべき問題のような気もする。ハイレベルのオケは何も言わずとも全部揃えてきます。コンセントレーションの問題と思います。とはいえ冒頭のホルンのソロ、そして魅惑的なピアノ、そこから流れ出てくる音楽はブラームスの明るさを示していて、その光が放たれた様な演奏はお見事でした。充実した演奏でよかった。

後半のシンフォニエッタ。解説によると15歳の時の曲、管弦楽曲の作曲としては2曲ということだから聴く前から驚く。結果、前半の協奏曲と同じく50分に迫る大曲でした。
ここでも指揮者ゲッツェルの棒がよくきまっています。重心を低くせず高から低まで各インストゥルメントとそのアンサンブルが均質にバランスよく鳴る。また細部への光の当て方も前半と同じく美しさが際立っている。初めて聴く曲ですが全く飽きることなく最後まで楽しめました。
第1楽章ソナタ、第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテ、第4楽章パテティコ。
形式感は下敷きのようなもので、ときに甘く、少しだけ激しく、メランコリックな雰囲気の音楽が続く。響きが変わり、流れていくので飽きることはない。曲はデカいが内容はシンフォニエッタにふさわしいと言える。
2番以外のホルンは女性陣、これはこれで迫力ある。この曲ではホルンはほぼ吹きっぱなしではないか。ソロは頻繁に出てくるが長続きするようなメロディーラインは無く、アンサンブルでの吹奏が多いですね。吹きっぱなしは大変だと思います。この曲では重要な楽器であるようです。

2曲と休憩で2時間越えてしまいましたが、アンコールがありました。指揮者の十八番でしょうか。季節的な景気づけのような気もしました。あと1カ月で正月ですし。

いい内容の演奏会、ありがとうございました。
おわり

 


2025- シベリウス、Vn協、ヴァハラ、Sym1、ヴァンスカ、読響、2015.11.27

2015-11-28 00:01:47 | コンサート・オペラ

2015年11月27日(金) 7:00pm サントリー

シベリウス カレリア組曲  4′+6′+5′

シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調  16′9′7′
  ヴァイオリン、エリナ・ヴァハラ
(encore)
バッハ 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番から「サラバンド」 3′

Int

シベリウス 交響曲第1番ホ短調  10′、9′、5′+12′

オスモ・ヴァンスカ 指揮 読売日本交響楽団


昨晩はオッコ・カムの指揮で自国のオケを指揮した1番、今日はヴァンスカが読響を指揮した1番。シベリウス生誕150年にふさわしい続き具合です。

ヴァンスカのシベリウスは自国で培われた、それこそ生まれた時からあるDNA的な要素は大いにあると思いますが、それにもまして、そのシベリウス像をオーケストラに深く注入、刻印するその彫りの深さ、そしてそれを実現させるためのオーケストラの練りあげ度の高さ、このような部分でのレベルの高い伝達棒で、シベリウスの極意というものをすべて理解したうえで、さらにオーケストラへの浸透させる力に優れていると言えるもの。換言するとインターナショナルな普遍性に優れている。このような演奏であればシベリウスへの理解も多くの人に伝播していくというものだろうと実感する演奏でした。

シベリウスの1番は既にソナタの形式感が後追いでついてきているようなもので、散文的な色彩が濃い。モザイクと言う話ですが、その原点で狂詩曲な様相を呈している。ヴァンスカはそれを押しとどめるようなことはしない。それは昨晩聴いたカムの解釈も同じです。気まぐれな交響曲とまでは言えないが形式は下敷きで利用するだけ、あとはシベリウスのしたいことをする、7番に至る本質がよく垣間見えるものです。
緩徐楽章は味わいの深いもので、コクのあるウィンドのハーモニー、完全にコントロールされたブラスの強奏、弦のひき締まった張りのある響き、シベリウスのツボをヴァンスカは非常にうまく表現していたと思います。3楽章のトリオの部分の演奏なども同じモードですね。
終楽章はロマンチックな色彩が濃いが、それを綿々と引き延ばしていくようなところはない。カムも同じ。ここらへん、ストンと切ったり終わったり、フィンランドの言語アクセントがどのようなものであるのか全く分かりませんけれど、共通項的な表現として感じる部分があります。
狂詩曲的な荒々しさと練りあげ度、解釈の浸透度、それらに応えるオーケストラ、いい演奏でした。

前半の協奏曲、これも好きな曲です。金髪でスレンダー美人、清楚な雰囲気ででもちょっと気が強そうなエリナ・ヴァハラさん、中音域低音域はかなり太くて大きく響く、高音域もおしなべて同じ。あの細い腕から強い芯のある音での演奏が繰り広げられます。シベリウスは十八番と思われます。緩急パッセージともに余裕の弾きで説得力ありました。あの金髪が乱れず強靭な音楽が奏でられるあたり、びっくり、うなるだけ、です。
また、ヴァンスカとこれまでも共演しているようで息の合った展開。ヴァンスカの舟を漕ぐような独特の指揮スタイルをきっちりわかっているようでオーケストラとのフレージングもきれいに合っています。このコンチェルトではオーケストラの全奏中でのソロがありますが、ヴァンスカはそのような個所はあえてオーケストラを押さえつけることはせず、ソロともども鳴らし切る。そのような解釈でした。音はかき消されるが音楽の一体感は凄いものだったと思います。まさに同時協奏です。こうゆうところにもシベリウスを聴く醍醐味があります。美しいプレイヤーのいいコンチェルトでした。


ここのところのヴァンスカのことは少しは知っています。
何年か前にフィラ管がバンクラプト、それを新聞記事で追っかけしていた頃があり、その流れでミネソタ管のロックアウトの話し、その後の展開、ヴァンスカのとった決意表明、考え、等々、いろいろあったと思います。それらを、ニューヨーク・タイムズやミンポストの電子版で結構長い期間フォローして読んでいました。ツイッターにも逐次展開を紹介したりと。ですので、その人となりも少しはわかっているつもりです。
今日はいい演奏会でした、カレリアの3曲アタッカ演奏から1番のピチカートエンディングまで楽しませてもらいました。
おわり


2024- シベリウス1番2番、オッコ・カム、ラハティ響、2015.11.26

2015-11-26 23:38:47 | コンサート・オペラ

2015年11月26日(木) 7:00pm コンサートホール、オペラシティ

シベリウス 交響曲第1番ホ短調  11′、9′、5′+12′

Int

シベリウス 交響曲第2番ニ長調  9′、14′、6′+14′

(encore)
シベリウス 組曲「テンペスト」より第2番第6曲「ミランダ」 2′
シベリウス 行列  3′
シベリウス 「ペレアスとメリザンド」より、間奏曲  4′

オッコ・カム 指揮 ラハティ交響楽団


まだ70歳になっていないと思いますが、椅子に着席しての指揮。
前半の1番は以前にもまして草木をなぎ倒すような豪快な演奏。細部もそうでないところも同じように前進していく。ヒートアップしていくというよりずっとそのままのテンションで草木をわけていく。
緩徐楽章での圧倒的なブラスセクションの咆哮。推して知るべしの全体バランス。1番の激しい音楽がよく表現されたものと言えよう!勇猛な演奏です。
冒頭のクラリネットソロのあと弦の響きは透明感あふれ印象的なもの、フィンランドのシベリウスを感じる。いわゆる北欧の透徹したサウンドのイメージ、それがそのまま広がる。豪快で彫りの深い演奏をこのようなサウンドで聴く。シベリウスに直に接した気分。
オーケストラの響きとしては、ウェットではなくかといってドライでもなく、メタリックな感じ、ブラス、弦、合奏がちょっと押しつぶされた様な響きになることがあり、スキル均質的な観点でのレベル感にばらつきがあるのかもしれない。指揮者は意に介さないと言ったところか。カラヤンコンクールのあと一頃、指揮に問題ありという時代もあったと記憶しますけれど、それもこれも努力して乗り越えたとうよりそれもこれも意に介さず踏み越えてきたような根っこの強さを感じさせる指揮者です。

後半の2番は、豪快さがやや丸みを帯びてきたようなところがあります。フィナーレは以前に比べ駆りたてない。比較的ゆっくりしたものでなにか解脱感のようなフィーリング。フレージングが予定調和を感じさせる。オーケストラのほうは前半でのテンションが燃え尽き症候群にあってしまったのかもしれない、ちょっと緩んでしまった。指揮者とオケが別々の思いながらゆるくなった演奏現象となり微妙な味わいでした。

来日公演だからか、前半後半チューニングのオーボエは別々のかた。前半の奏者はシベリウスとショスタコーヴィッチをハイブリットしたような眼光鋭い奏者でした。後半は出てきませんでした。オーボエトップが入れ替わるというのはあまり見ない光景。
ブラスセクションはウィンドよりかなり奥に配置されているが、オッコ・カムの指示の中、鳴らしすぎ。
そのせいかどうか、2番のバスーンのユニークなヘアメイクの女性のかた、後頭部をクッションのような物で覆っている。さらに頻繁に耳栓をしたりはずしたり。耳栓使用は他の何人かの方もしていて、ホルンのプリンシパルもそうだったので、本拠地のホールとこの初台ではなにか別の問題があったのかもしれない。
女性プレイヤーが割と多く、トランペットにも1名。それとメガネをしている人が多い。みんなインテリっぽい雰囲気持っていますね。


エニウェイ、1番は猪突猛進型、2番は少しあまめ。このあと7番までやるわけですが、3番、4番、ヴァイオリン協奏曲の組み合わせの日はどうなることか(聴く予定は残念ながらありませんけど)
1番のテンションで3番4番もっていかれたらちょっと違和感あるかもしれません。コンチェルトは豪快な伴奏でいけそう。
3番終楽章はメタリックな艶めかしさを聴けそうなワクワク感ありますね。

この日はレアなアンコール3曲ありました。同じように別のレア聴けるような期待感。
おわり



2022- モーツァルト、pf協24、オピッツ、ブラームス4番、マリナー、N響、2015.11.25

2015-11-25 22:49:46 | コンサート・オペラ

2022- モーツァルト、pf協24、オピッツ、ブラームス4番、マリナー、N響、2015.11.25

2015年11月25日(水) 7:00pm サントリー

モーツァルト ピアノ協奏曲第24番ハ短調K491  14′7′8′
  ピアノ、ゲアハルト・オピッツ
(encore)
ブラームス 幻想曲集op.116から第4番 間奏曲ホ長調  5′

Int

ブラームス 交響曲第4番ホ短調  12′10′6′10′

ネヴィル・マリナー 指揮 NHK交響楽団


1924年生まれだから91歳。昨年も2度ほど聴きました。そのときはがにまた歩きが気になりましたが、この日のマリナーは老いてますます意気軒昂という感じでした。
後半のブラームスはテンポを緩めるようなところは微塵もなく、むしろオーケストラを駆り立てていくような具合で、非常に引き締まった演奏。楽章が進むにつれてさらに筋肉質に変貌していくオケの個々のプレイヤーの気持ちの盛り上がりが良くわかるもので、古典的ブラームスの間から熱いものがにじみ出てくるような演奏でしたね。最近多いなよなよした神経質な演奏とはずいぶんと異なる。
あっというまに終わってしまいました。

前半のコンチェルトはメナヘム・プレスラーが17番を弾く予定だったものがキャンセル、オピッツが急きょ、曲を24番に変えて出演。こちらは1953年生まれで随分若い。62歳ぐらいですかね。指揮者と合わせると153歳。もし1923年生まれ92歳のプレスラーが出ていれば、183歳コンビと言う話でした。もう、こうなるとオピッツは若いというか。

オピッツのピアノはその体躯に似合わずと言っては失礼だが、音がとてもきれい。澄み切った音で、強弱や余計な熱でうならせるようなものとは異なる。音の振幅には特別な興味が無いように思えて、むしろ均質で正確な音価に注意を払いそれが身についてしまっていて、透明感と正確さは切っても切れないものだよと、そのようなプレイです。このモーツァルトはどこにいくのだろうという思いはあります。愛着を感じる演奏でした。

なかなかいい演奏会でした。
ありがとうございます。
おわり

追記
プレスラーは昔聴いたことがあるようです。この組み合わせのコンサートですからそちらのことばかり書いてプレスラーのことは書かずじまいですね。
832- マーサリス&MTT 1984.8.25 第18回モーストリー・モーツァルト・フェスティヴァル
 

 


2021- ショスタコーヴィッチ15番、ジョナサン・ノット、東響、2015.11.23

2015-11-23 18:56:53 | コンサート・オペラ

2015年11月23日(月) 2:00pm ミューザ川崎

リゲティ ポエム・サンフォニック、100台のメトロノームのための
(作動時間40′、1:30-2:10pm)
+連続演奏

バッハ(ストコフスキー編曲) 甘き死よ来たれBWV478  6′

+連続演奏

シュトラウス ブルレスケニ短調 20′
  ピアノ、エマニュエル・アックス
(enocre)
ブラームス ピアノのための6つの小品より、インテルメッツォop118-2 6′

Int

ショスタコーヴィッチ 交響曲第15番イ長調  8′、17′+4′、18′

ジョナサン・ノット 指揮 東京交響楽団


昨日のサントリー定期に続き、本日は川崎で聴きました。名曲全集というシリーズの一環で行うもので、そのシリーズ名にふさわしい曲が並んだと思います。曲げずに理解します。

お目当てのショスタコーヴィッチ、第1楽章はスピードアップ、終楽章はゆっくりめでしたが概ね昨日と同じ印象です。
このホールのひな壇は、1段目と2段目にウィンドグループ、3段目にブラスとパーカッション、高めの位置でブラスは昨日より、より明瞭だった気がします。そもそも弦の位置する舞台、ひな壇の無いところですね、そこの位置が非常に低いホールのつくりで、客席と何十センチぐらいしか高さが違わない。1階席はオケと一体感あり過ぎで自分がプレイしているような錯覚に陥る。ので、後半は2階席空席に移動。8分の入りと言ったところか。ちょっと思い出しましたが、この日のパンフレットにアンケートがはいっていましたが、座った席の記入欄ありましたね。移動したのでチケットの席を書いておきました。

この曲はいろんなインストゥルメントのソロが多い。東響のプリンシパルの方々みなさん腕達者で感心しますね。これだけの腕前が揃っているから、この曲の説得力も倍加する。特に第2楽章のホールを揺るがすようなチェロソロにはびっくりしました。昨日のサントリーよりもよく鳴りました。
各プリンシパルと指揮者の呼吸がシンクロしているのではないかと思えるぐらい一致していて、ノットの思っていることがパーフェクトに伝わり表現されている。トップからパートプレイヤーにもいい具合に呼吸が伝わっていると感じます。
この究極の彫琢の美学作品が、なにか自然に出来上がったもの、自然美のように見えてくるから驚き。パーフェクトな作品にはパーフェクトなスキルが何も言わずともついてくる。
またアンサンブルも例えば第1楽章からある4拍子と3連符が同時進行するフレーズ、これひとつとってもクリアなサウンドにうなる。
まぁ、個人的にはこれをセッション録音して、英字の文面のライナーノート付けて世界に発売してほしい。もう一つ言うと、2枚組にして、リゲティ約40分かかったメトロノーム音からバッハ、シュトラウス、これも収録してしまう。それで世界販売したら話題になると思いますね。メトロノームに癒される人達、続出!みたいな話になるかもしれない。

曲については、昨日のブログをご覧ください。
2020- ショスタコーヴィッチ15番、ジョナサン・ノット、東響、2015.11.22


今日も素晴らしい演奏会ありがとうございました。
おわり


2020- ショスタコーヴィッチ15番、ジョナサン・ノット、東響、2015.11.22

2015-11-22 20:59:41 | コンサート・オペラ

2015年11月22日(日) 2:00pm サントリー

リゲティ ポエム・サンフォニック、100台のメトロノームのための
(作動時間40′、1:30-2:10pm)
+連続演奏

バッハ(ストコフスキー編曲) 甘き死よ来たれBWV478  6′

+連続演奏

シュトラウス ブルレスケニ短調 20′
  ピアノ、エマニュエル・アックス
(enocre)
ショパン ワルツ第3番 op.34-2   5′

Int

ショスタコーヴィッチ 交響曲第15番イ長調  9′、16′+4′、17′

ジョナサン・ノット 指揮 東京交響楽団


大変に興味深い演奏会でした。
リゲティの曲はマシンに演奏させるもので、開場時に既にスタートしていて、マシンの物理的停止をもって曲を終わる。マシンなのにいつ終わるかは正確にはわからないという不確定なことを逆手に取ったもの。その不確定部分が音楽作品であるということのオンリー要素になっている。マシンへのこのゆだね方は姑息とは言わないがマシン任せ、マシンの勝手、マシンのねじの締め具合で100台のマシンが散り散りバラバラに早く終わったり長く動いているものやら、いずれにしてもだんだんと動いているマシンは少なくなるのでその分だけ響きやリズムが少しずつ変化縮小していく。減衰のマシン音の音響音楽。音楽としては頭の中で響いているだけかもしれず、作曲家はそれを狙ったのかもしれない。マシンとはメトロノーム。
この減衰音響は後半のショスタコーヴィッチの15番のクロージングの締め方に対を成すものではなくて、音響面での親近性の並列化と言えるもので、マシンはデジャビュなのかもしれないとあとで思えるようなかすかな思い出、弱音によるパーカッション饗宴エンディングで思い起こされる。面白い趣向のプログラム・ビルディングで、この指揮者ならではと言えるものだろう。

2時の演奏会開始とともにホールのドアはクローズされるがメトロノーム音はその30分以上前から動作している。そしてマシンの最後の音が終わるまで2時からさらに10分ほど。それが終わったところを見計らい、これ以上甘いメロディーはこの世に存在しないのではないかと思えるようなストコフスキー編曲によるメロディアスでメロウそしてメランコリックで耳触りの良いバッハが始まる。メトロノームマシンとは天と地の違いながらこのシームレスな演奏はものすごく親近性を感じさせずにはおかないものでその強烈な説得力に音楽という毒の中に否が応でも引きずり込まれずにはいられない。リゲティとバッハをノットの手腕がつなぎ合わせた。音の印象が音楽の印象となりました。
このバッハの演奏はそれ単体でも印象深いものでしばらく忘れられないものだ。オーマンディ&フィラ管のバッハ・トランスクリプションのようなハイテンションで魅力的な演奏となりました。この演奏の見事な息の長さは指揮者とオケの蜜月のあかしのようなものだ。

以上、リゲティとバッハでは舞台の照明を薄暗く落としていて、バッハがクローズする少し前にアックスがピアノに歩み寄りブルレスケが始まったところでステージの照明は通常の明るさを取り戻す。見事な演出コントロールはメトロノームの不確定さとコントラストを成す。

ピアノを弾くアックスの腕を見ているとあまり右腕左腕が大きく離れない。なんだか狭い音域で奏でられている曲のような気がする。小さいものに愛着を感じてやまないような曲で演奏もそれを同一ベクトルにうまく反映されている。非常に歯切れの良いプレイでメゾフィルティからメゾピアノあたりの音域でくるんくるんと軽快に動き回る。まぁ、はっと気がつくとタイトル通りの見事さだなぁと思ってしまいますね。さっきまでの緊張感がこの軽妙な曲とプレイで気持ちよく弛緩していく。お見事ですね。
演奏後の自分主役風なアックスの振る舞いはほめられたものではないのでその分残念ながら気分がそがれ減点、せっかくの良好な雰囲気が台無しとまではいかなくても、あまり見栄えのいいものではない。若いときはこんなことをしなかったので歳のせいかもしれないけれど、リゲティからの一連のストリームを止めるようなものでよくありませんでした。
珠玉のようなアンコールで相殺帳消しにしようとしたのかその見事さには納得しますが、一度表に現れたものは消えないのです。見事なノットのプロダクションに水を差しました。


前半最初の2曲の美音弱音系のノットの世界観は、2011年にN響でショスタコーヴィッチの15番を振った時の猛速でほこりっぽい演奏とはかけ離れたもので、例えば第2楽章のむき出しのトロンボーンソロのナイーブでデリケートで弱音方向に指向を感じさせる吹奏等にも端的に表現されている。弦の張りつめた薄い膜のようなサウンド、黄色い東響独特の響きの統率感も素晴らしい。
メトロノーム音から派生した抑制がこのショスタコーヴィッチ演奏へのメルクマールとなる、水面下で演奏しているようなモノローグ的弱音美の世界。

第1楽章、ウイリアムテルは全く出しゃばらないのもので、小さい泡立ちのようにトランペットが吹かれる。この曲はノットの中では既にレパートリーとして定着しきっている。譜面を見てはいるが、棒の指示は全てのパートに的確にされていてそれが全くぎこちなさを感じさせずむしろ慣れた自在さを感じさせてくれる。最後の一音のコントロールされた余裕のエンディング、お見事。
第2楽章のチェロは骨太で、このむき出し音のソロはトロンボーンまで引き合いに出されるわけですが、音楽は終始、静止している。複数のパートが大きく重なるのを意識して避けているのはもはや自明で、フレーズが進むにつれて全体が減衰していく。張りつめた弦、透明で明晰なものは見えなければわからない。東響の色合いが一本の糸のようにガラスの上をなぞっていく。慎重にバランスされたアンサンブル・ハーモニーの美しさと緊張感、ひき込まれました。ここまでくるとさすがに第14番までの交響曲とは100歩違うと誰でも感じないわけにはいかないであろう。
バスーンに促されてアタッカではいる第3楽章、唯一この作曲家独特な諧謔的な音楽の場。この小さなオアシスはあっという間にジークフリートの場に変容、それは死という話しで、第4楽章の頭はその動機。この曲は引用の山だったとあらためて感じる瞬間でもありますね。
ヴァイオリンによるしだれ柳のような美しいフレーズは神経細胞を直接見ているような死の淵のデリカシーを覗き見る具合で、美しさと恐さが二律背反的に存在する。恐いもの見たさもここまでくるとその美しさに我を忘れる。ショスタコーヴィッチの世界が極まる。
張りつめた弦の長い長いトーンが4番のエンディング・エコーのように響く中、壮大なピアニシモ・パーカッションの饗宴でクローズ。もう、ノットは、ショスタコーヴィッチは自然界の現象であって、この滑らかな演奏こそ最高の音楽表現、これしかないと、言ってます。
素晴らしすぎるものでした。
ふと最初のリゲティが脳裏をかすめます、なんのデジャビュだったのか、いろいろと考えさせられました。
満足しました。ありがとうございました。
おわり


以下、2011年N響を振った時の感想

ジョナサン・ノット、N響 ショスタコーヴィッチ第15番
2011.2.16
2011.2.17