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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

安野モヨコ 『監督不行届』

2013年11月25日 | コミック
 旦那も嫁も脇役も完璧にイカレテル世界(『スティール・ボール・ラン』風に)。
 庵野監督って、本当にこうなんですか。島本和彦『アオイホノオ』で描かれる若き「庵野秀明」と美事に符合はしますが。

(祥伝社 2005年2月)

檀上寛 『永楽帝 華夷秩序の完成』

2013年11月25日 | 東洋史
 永楽帝が(そして明の太祖洪武帝も)元のフビライを尊崇し手本にしていたという事実は、社会経済史的視点にややもすれば傾きがちに思える明代史研究者には、当然のことながら久しく興味を持ちにくいことだっただろう。社会経済的視点を持つ人は、研究対象の人間が生まれ育ち生きる文化や、彼らの行動を決定する心性についてはわりあい鈍感だというのが、私の個人的な経験からする印象である。

(講談社学術文庫版 2012年12月)

梅文鼎 「学暦説」

2013年11月22日 | 自然科学
『梅氏暦算全書』所収『暦学答問』所収。

 そこに、「暦也者数也。数外無理、理外無数。〔略〕数不可以憶説、理或可以影談」とある。「理」が徐光啓と同じく(あるいはその用例を踏襲して)数理あるいは形式論理を意味していることが分かる。ただそれは、倫理と分離したものではなく、朱子学的な、倫理と物理の連続したあるいは融合したそれの、あくまで一部分として捉えられている。それはこの直前及び直後の記述から窺える。このことが、逆に遡って先達である徐光啓もまたそうであったかどうかについては、まだ審らかにしない。

Linda Benson/Ingvar Svanberg "China's Last Nomads: The History and Culture of China's Kazaks"

2013年11月21日 | 地域研究
 '3. China's Kazaks, 1912-1949'。おかげでオスマン・バトゥル Osman Batur のことがすこし解ったと思う。

11月25日付記。
 東トルキスタン共和国亡命政府のウェブサイト(日本語版)に「チュルク人世界研究基金がオスマン・バトゥル記念会を開催した」という記事があるが、 そこには、こう書かれている。

  オスマン・バトゥル(カザフ族、1889年~1951年)はアルタイ山の英雄の子孫である。強い信念と不屈の精神を持ち、中国共産党侵略者と ロシア共産党侵略者の悪行を憎み、東トルキスタンの解放と独立の為に身を捧げた。

 文中、ロシア共産党ではなくてソ連共産党であることを別にしても、この説明はいかがなものか。オスマン・バトゥルは、その理由や背景はさまざまに解釈・推測されるとはいえ、1946年以降、東トルキスタン独立運動(少なくとも共和国側)からは距離を置き、それどころか敵対している。

( M E Sharpe Inc., Apr., 1998)

大島明秀 『「鎖国」という言説 ケンペル著・志筑忠雄訳 『鎖国論』の受容史』

2013年11月21日 | 日本史
 江戸時代、ケンペル『鎖国論』(『日本誌』の部分訳)を訳したのは志筑だけではなく、その他の人間のなかには高橋景保や箕作元甫、杉田成卿、坪井信良が含まれること、さらには明治後も大正年代に至るまで、新たな訳出作業が全訳を含めて幾度か行われたことを知る。64頁、表2「『日本誌』の邦訳史」。それから、『暦象新書』の原著者の名は「カイル」ではなく「キール」としてある。John Keill。「ケイル」の可能性もある。

(ミネルヴァ書房 2009年1月)

小野和子 「顔元の学問論」

2013年11月20日 | 東洋史
 『東方学報』41、1970年3月、同書467-489頁。

 毛沢東の「体育之研究」(『新青年』3-2、1917年)を冒頭持ち出して、顔元のことは毛沢東も誉めているのですよと、いわば"掴み”にしているのは時代か。
 顔元は興味深い人物だと思うが、あの極端なまでの朱子学攻撃、書斎主義・観照主義の否定、実践の重視および経書の軽視には、どこか王学の名残が、というよりも、そこから継承されたなにごとかがあるように思える。小野先生は完全な断絶をそこに見ておられるけれども。

島田虔次 「ある陽明学理解について」

2013年11月20日 | 東洋史
 『東方学報』44、1973年2月、219-232頁。

 岩間一雄氏の『中国政治思想史研究』(未来社 1968年)における批判への再批判。ここでの紹介からうかがわれるかぎり、岩間氏の批判も相当感情的であったと思われるが、島田氏の返答もちょっと驚くほど感情的である。岩間氏の学説を「異様」などと呼んでいる。
 それより、同論文における引用から、王陽明の「公」に関するある興味ある用例の存在を教えられた(同227頁)。

 王陽明『伝習録』 中 「答羅整菴少宰書」 (以下の引用は維基文庫より)

  執事所謂「決與朱子異」者,僕敢自欺其心哉?夫道,天下之公道也,學,天下之公學也,非朱子可得而私也,非孔子可得而私也,天 下之公也,公言之而已矣。

 (島田虔次訓読、注釈)
  執事〔=羅整菴〕の所謂〔僕の〕決して朱子と異なる者は、僕敢えて自ら其心を欺むかんや〔=まさしく仰せの通りでいまさら強弁しようとは思わない〕。夫れ道は天下の公道なり,學は天下の公學なり。朱子の得て私すべきに非ざるなり,孔子の得て私すべきに非ざるなり。天下の公なり、之を公言せんのみ。  

 ここに見える「公」には、倫理的(正確に言えば儒教的)な意味はほとんど入っておらず、たんに「皆の」「おおっぴらの」、もしくは現代風の言葉を使えば「公共の」という意味である。だから朱子だけでなく孔子も「得て私すべきに非ざるなり」となる。「公道」=公共の価値、「公学」=皆が学ぶことの出来る学問、「天下の公」=この世の誰ものもの、「公言」=皆へおおっぴらに公共の場で発言する。


菅沼愛語 「徳宗時代の三つの唐・吐蕃会盟(建中会盟・奉天盟書・平涼偽盟) 安史の乱後の内治のための外交」

2013年11月20日 | 東洋史
 『史窓』68、2011年2月、139-162頁。

 おなじ著者の「西魏・北周の対外政策と中国再統一へのプロセス 東部ユーラシア分裂時代末期の外交関係」(『史窓』70、2013年2月)を読んだ時思ったのは、正史や『資治通鑑』といったきわめてありふれた材料でも、視点が新しければいくらでも論文を書けるという桑原隲蔵が言ったという言葉を証明するような論文だということだった。 今回のこの論文も、感想は同じである。ただしさらに付け加えるべきことがある。「おわりに」で示される結論とシェーマは、史料を網羅的にかつ緻密に読み込んだ上で打ち立てられるもので、その説得力と重量は、感嘆措くあたわずと。
 その結論よシェーマとを、粗雑の誹りを恐れず私なりに要約とするとすれば、五代以前は周辺国家或いは民族が中国王朝の威光を借りて自身の支配教化に用いる構図だったのが、以後は中国国内の諸勢力(時に国家)が、逆に周辺国家・民族の威光を借りる状況が出現する、安史の乱後から唐末にかけてはその過渡期であり、唐―吐蕃関係はその実例であるということ。

檀上寛 「明代朝貢体制下の冊封の意味 日本国王源道義と琉球国中山王察度の場合」

2013年11月19日 | 東洋史
 『史窓』68、2011年2月、163-186頁。

 「朝貢国」と「冊封国」が概念・実体双方において別個の存在であることを事実に徴して示すことにより、結果的に、西嶋定生氏の中華帝国冊封体制論の全否定と、坂野正高氏による一元的体制としての冊封関係不存在説への支持となっている。まあ、同じ著者(西嶋氏)の「中国古代帝国の一考察 漢の高祖とその功臣」(『歴史研究』141、1949年)同様、初めて出た時から多くの研究者は「あれはダメだ」と、口には出さね思っていたと思うが。