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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

鳥井裕美子 「ケンペルから志筑へ 日本賛美論から排外的『鎖国論』への変容」

2013年11月26日 | 日本史
 『季刊日本思想史』47、1996年、同誌115-133頁。

 ケンペル著の原題は、「今の日本人が全国を鎖して国民をして国中国外に限らず敢て異域の人と通商せざらしむる事実に所益なるに与れりや否やの論」である由。この題から分かるように、原著はきわめて論争的(イエス・ノーを争うディベート的)な体裁と内容である。ケンペルは一般論として鎖国を否とし、ただし日本の置かれた内外の諸情況(元禄時代のそれ)を鑑みて、開国の必要なしとして個別例外的に是とした。
 これを志筑忠雄は、最初の否の部分を改変し、邪教を掲げた異人の侵略から我が国を護るために必要のみならず積極的な善であったという論旨に変えた。さらに開国は害をもたらすという自身の主張を訳文中にひそかに書き入れた。また、原著にある日本と日本人を賞賛する部分を誇張する一方(ここでも自分の主観的な賛美の言を本文の中に潜り込ませている)、著者の事実的な間違いや批判には、いちいち長文の注を付けて執拗に訂正をほどこし(それは必ずしも客観的なものではない)、かつ、感情的な反発の言を書き連ねた。それは、原著者のケンペルを「戎狄」と呼ぶほどのものである。
 つまり志筑は、翻訳者としておのれの本分を尽くさず、それどころか逸脱した。「愧じよ」と、言いたい。

深瀬公一郎 「近世琉球における大和旅体験」

2013年11月26日 | 地域研究
 『風俗史学』52、2013年5月、同誌6-29頁。
 1609年薩摩侵攻後の琉球では、日本・中国、そして先島諸島への出張を、日本語文書では「旅役」と称した。琉球王府では伝統的に日・漢両言語が文書言語として用いられていたが、ただしこの時期、羽地朝秀の日本化政策により、日本語の比重がまし、その結果日本式の公式文書形式や書風その他、様々な日本の技術・学問・芸能の習得に努力が傾注されるようになった。琉球王府役人の旅役(“大和旅”)の一環としての薩摩への諸芸留学(“稽古”)は、その背景下で行われたものである。儒学すら、中国でなく日本で学ぶほうが上達が早いとして(主として言語的原因の由)、日本での学習が好まれる傾向があったという。この情況は羽地の死後も続く。

橋本敬造 「梅文鼎の数学研究」

2013年11月26日 | 自然科学
 『東方学報』44、1973年2月、同誌233-279頁。
 梅文鼎がおのれの数学を「実学」と称する時、それは抽象的な普遍性を持ちつつ客観的な実在でもある「数」というものを基にすると同時に、暦学・収税・財政・軍事など、実際的に「経世の用」に立つ学問であるという二重の意味においてであった。

 なお同論文で知ったこと。明清時代の文言文において、西洋数学およびそれに触発されて再認識・分析された中国数学、そしてその結果、当時の学者個々によって中西いずれを尊しとなすかでその比重に偏りがあるものの、とにかく統一物として理解された数学という学問分野一般を「度数之学」と称するのは、度=量法=測量=幾何学、数=算法=計算=算術の、「数学」概念の二元理解から来ている由。