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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

Andrew D.W. Forbes "Warlords and Muslims in Chinese Central Asia"

2013年11月15日 | 地域研究
 副題 "A Political History of Republican Sinkiang 1911-1949"

 先のMillward "Eurasian Crossroads: A History of Xinjiang"の、第二次東トルキスタン共和国独立時のカザフ人の活動や、独立勢力による漢人虐殺についての記述は、多くをこの著に負っている。'Sinkiang, 1944-6: Muslim "separatism" under the Kuomintang', 'The Kazakh Revolt in Zungharia and the birth of the "East Turkestan Republic" in Ili', pp. 170-176.

(Cambridge University Press, 1986)

James Millward "Eurasian Crossroads: A History of Xinjiang"

2013年11月15日 | 地域研究
 当たり前のことだがこれは真面目な第三者の研究者による客観的な研究なので、1944年11月に成立する第二次トルキスタン共和国の、独立運動の口火を切ったのがウイグル人ではなく前年1943年秋頃から活動を始めたカザフ人であったことも、彼らがソ連の援助と影響下にあったことも、そして彼らが1944年10月の蜂起の最初にイリ地区の各地で新疆在住の漢人を虐殺したことも、すべて憚らず書いてある('5. Between China and the Soviet Union (1910s-1940s)', pp. 215-216)

(New York: Columbia University Press, 2007)

韓愈 「殿中少監馬君墓誌」

2013年11月15日 | 文学
 (『唐宋八大家読本』所収。維基文庫にテキストあり)

 最後の一文の意味がよくわからない。文章の構成上、その少し前の部分から挙げる。

  嗚呼!吾未耋老,自始至今,未四十年,而哭其祖子孫三世,於人世何如也!人欲久不死,而觀居此世者,何也?

 問題としたいのは下線部である。
 通常は、「人久しく死せざるを欲して、而も此の世に居る者を観るは何ぞや」と訓読するようだ(例えば有朋堂文庫、岡田正之『唐宋八大家文』)。あるいは「観るに何ぞや」(中国古典選、清水茂『唐宋八家文』)。だがいずれにせよ、文意がよく分からない。「長生きをしたいと思いながら、この世に生きる人間を眺めるのは、何だろう」というのはいったいどういう意味なのだろう。
 まず考えられるのは、その前にある「於人世何如也」の句から考えて、ここの「何也」も、「何如也」で、つまり「如」の字が脱けているのではないかということである。これはすでに先人の指摘がある(漢籍国字解釈全書、松平康国『唐宋八大家文読本』による)。しかしそれでも意味は相変わらずはっきりしない。

 ここで引用部分をすべて訓読してみる。ただし必ずしも伝統的なそれには従わない。

 嗚呼、吾未だ耋老(年老いる)せず。始めより今に至るまで未だ四十年たらずして、其の祖と子と孫との三世を哭す。人世に於ける何如ぞや。人久しく死せざるを欲して、而も此の世に居る者を観るは何如ぞや。

 前の「人世に於ける何如ぞや」の意味は明白である。「なんという世の中か」。だが後者は「何」を「何如」に入れ替えても依然としてよく分からない。いや「どういうことだろう」というそれ自体の意味は明らかだ。つまりは、その主語となる「人久しく死せざるを欲して、而も此の世に居る者を観るは」が不分明であることがすべての原因なのである。
 先に名を挙げた清水茂氏は、ここの解釈として二つをあげておられる。
 1.この世の人々が死なないもののごとく考えて平常くらしていることが不思議である。
 2.人が死なないで、他人が次々と死に行くのを見ようとするのは、どういうつもりだろうか(知り合いの死ごとにその悲しみに堪えぬであろうに)。
 ちなみに岡田正之氏の解釈は1のほうに近い。
 清水氏は、それぞれ理由をつけてこのどちらの解釈も退けている。そしてご自身の解釈は示しておられない。つまり分からないとされたわけである(同書第1巻、143頁)。
 私は、「人欲久不死,而觀居此世者,何也?」の部分は、衍文ではないかと疑っている。必要ではないからだ。「於人世何如也!」で終わっても、何も問題はない。

池田信夫blog 「『土台と上部構造』についての誤解」( 2013年11月15日11:35 )

2013年11月15日 | 社会科学
 メモ。

 国家という土台のあり方が資本主義という上部構造を規定する。英米型の司法中心のガバナンスが株主資本主義を生み出し、官僚中心の大陸法は「ステークホルダー資本主義」を生み出した。日本の「国のかたち」はこのどちらとも違い、コモンロー的なゆるやかな社会規範に大陸法型の厳格な法体系が乗っているため、法の支配が機能していない。 (下線は引用者)

 ただしこの論、「実はヘーゲル法哲学でも所有権や契約は所与として「社会的分業や交換によって媒介される」市民社会が構成されているので、暗黙のうちに国家を前提にしている」から「資本主義の土台は国家」で、「だとすれば、国家という土台のあり方が資本主義という上部構造を規定する」という議論はおかしい。ヘーゲルの主観的理論がそうだから客観的現実の証明になるという主張は成り立たない。