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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

西川如見 『町人嚢』

2013年11月18日 | 日本史
 「日本思想大系」59『近世町人思想』(中村幸彦校注、岩波書店、1875年11月)収録、同書85-173頁。

 冒頭に「庶人に四つの品あり」として「士農工商これなり」と言うから、折角同時代人でありながらこいつは漢籍頭の野郎の本箱かと思ったが、そのすぐ後に「此四民のうち工と商とをもって町人と号せり」と言い換えていたので、気を取り直して続きを読む気になった。
 冗談はさておき、西川如見の「理」は、みごとなほどに倫理と物理が結合している。癒着していると謂ってもいいほどである。そして前者が後者を、完全に包摂している。「夫(それ)命は生きとしいけるもの、惜きことは天理自然なり」(巻一)といったものがその用例の一である。
 この人の学問とは、世間の常識を確認する為にある。彼は真理の探究には興味がない。また彼にとり聖人の教えは、社会の伝統慣習その他、現実世界の倫理的正しさを証明するために存在するものであり、そしてこんどはそれが逆に聖人の教えの正しさの証明になるという、循環論法を形成している。
 これは、学問の実用主義的理解と言い換えてもいい。彼は町人(商人)道を説いて、「金にならないことは価値が無い、学問は本業に差し障りがない程度にとどめるべし、できれば本業に役立ててこそあるべき学問だ」(要約)というのだが、だが四書五経のどこに金儲けせよと教えているか。理をむさぼるな、普段は慎ましくあれと教えたところで、安く買い高く売る商人の本質が変わるわけではない。
 身分制を"自然(の)天理”として無条件無批判に肯定し、己の分際に疑問を抱かず生きることを本分を尽くすと言い換え、それを正当化する為に儒教の教えをもってくるからこんなおかしなことになる。では侍は人を殺すのが聖経”に叶うことになるのか。
 例えば同書巻五、"公”の解釈を見よ。「公の字はおふやけと読みて天理にして私なき事を公とはいへり」。だから天理として公儀を畏れ慎まねばならぬと。だがその字を冠しているから即実体も「天理にして私なき」であるとは言えない。ここに詐術がある。公には「支配者」という意味もある。
 ただ彼が自然現象と人間の行いの相関関係を否定している点は、注意すべきと思える。『町人嚢底払』巻上。「天地に凶事なし。凶は人にあり。〔略〕人界目前の情意なり。」

鈴木比佐雄/若松丈太郎/グエン・クアン・ティウ編 『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集175篇』

2013年11月18日 | 文学
  翻訳:冨田健次、清水政明、グエン・バー・チュン、ブルース・ワイグル、郡山直、   矢口以文、結城文、沢辺裕子、島田桂子。

 「序」をへて、本文部は、無名氏「南国山河」より始まる。
 
  南國山河南帝居 (南国の山河は南帝の居)
  截然分定在天書 (截然として分かち定むるは天書にあり)
  如何逆虜來侵犯 (如何にして逆虜は来たりて侵犯す)
  汝等行看取敗虚 (汝等行きて敗虚を看取せよ) →参考

 モンゴル・元侵攻時の抵抗詩を経て、中国明による第二北属期を終わらせた宣言「平呉大誥」、清代乾隆帝の侵略時の抵抗詩、そしてフランスまた米国とのたたかいを詠う詩が続く。
 日本および韓国の詩人によるベトナム戦争反戦詩も収録されている。日越国交樹立四十周年を紀念しての出版とのこと。→参考

(コールサック社 2013年8月)