『史窓』68、2011年2月、139-162頁。
おなじ著者の「西魏・北周の対外政策と中国再統一へのプロセス 東部ユーラシア分裂時代末期の外交関係」(『史窓』70、2013年2月)を読んだ時思ったのは、正史や『資治通鑑』といったきわめてありふれた材料でも、視点が新しければいくらでも論文を書けるという桑原隲蔵が言ったという言葉を証明するような論文だということだった。 今回のこの論文も、感想は同じである。ただしさらに付け加えるべきことがある。「おわりに」で示される結論とシェーマは、史料を網羅的にかつ緻密に読み込んだ上で打ち立てられるもので、その説得力と重量は、感嘆措くあたわずと。
その結論よシェーマとを、粗雑の誹りを恐れず私なりに要約とするとすれば、五代以前は周辺国家或いは民族が中国王朝の威光を借りて自身の支配教化に用いる構図だったのが、以後は中国国内の諸勢力(時に国家)が、逆に周辺国家・民族の威光を借りる状況が出現する、安史の乱後から唐末にかけてはその過渡期であり、唐―吐蕃関係はその実例であるということ。
おなじ著者の「西魏・北周の対外政策と中国再統一へのプロセス 東部ユーラシア分裂時代末期の外交関係」(『史窓』70、2013年2月)を読んだ時思ったのは、正史や『資治通鑑』といったきわめてありふれた材料でも、視点が新しければいくらでも論文を書けるという桑原隲蔵が言ったという言葉を証明するような論文だということだった。 今回のこの論文も、感想は同じである。ただしさらに付け加えるべきことがある。「おわりに」で示される結論とシェーマは、史料を網羅的にかつ緻密に読み込んだ上で打ち立てられるもので、その説得力と重量は、感嘆措くあたわずと。
その結論よシェーマとを、粗雑の誹りを恐れず私なりに要約とするとすれば、五代以前は周辺国家或いは民族が中国王朝の威光を借りて自身の支配教化に用いる構図だったのが、以後は中国国内の諸勢力(時に国家)が、逆に周辺国家・民族の威光を借りる状況が出現する、安史の乱後から唐末にかけてはその過渡期であり、唐―吐蕃関係はその実例であるということ。