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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

田中加代 『広瀬淡窓の研究』

2013年11月12日 | 日本史
 「四 教育制度論と咸宜園教育」にある咸宜園の教育カリキュラムを見てみると、漢籍で暗記を必須とされたのは『蒙求』と『十八史略』だけで、あとは素読と講義のみである(四書五経とその注釈)。面白いことに『荘子』『菅子』『墨子』まで講義されている(343頁)。驚くべき事にここでは数学や天文学、医学まで教えていた。医学は広瀬自身がもと医者志望だったから解らないでもないけれども、それにしても儒学塾としては異端である。大村益次郎が適塾に往く前に咸宜園で学んでいたことは知っていたが、そういうことだったかと納得。高野長英も此処に籍を置いていた由(ただしこれについては異説もあるとのこと)。

 11月13日追記。

 1. 広瀬淡窓の敬天論は、因果応報(天命)といった天人感応説に近いところもあれば(ただし淡窓は災異だけに感応の対象を限った漢儒の説を狭隘なものとして批判している)、一方で天を人格神に近い捉え方をしていたりして(田中加代氏は『書経』の天の観念に基づくものだと言うのだが)、把握しづらい。

 2. ウィキペディア「広瀬淡窓」項に、彼の敬天論につき「朱子学においては『天』と『理』は同じものであるが、淡窓の考える『天』は『理』とは別の存在であり、『理』を理解すれば人間は正しい行いをして暮らすことができる、しかしその『理』を生む『天』は理解することができない、とする」という指摘があった(同項注2)。
 この天と理の認識における分離は、銭大が『十駕斎養新録』で述べたところのものである。広瀬は銭よりも後の人である。広瀬は銭の著を読んだことがあるのかどうか。

(ぺりかん社 1993年2月)

藤岡毅 『ルィセンコ主義はなぜ出現したか―生物学の弁証法化の成果と挫折』

2013年11月12日 | 自然科学
 マルクス主義(就中唯物論的弁証法)即ち社会科学が、生物学(即自然科学)に優越する科学だと見なされたから、そしてその背後にあるのは科学についてのあまりにも実用主義的な理解、と理解する。

 メモ。

  ソ連でルィセンコ派の支配が決定的になった時、特に英国の左翼は、ルィセンコを支持するものと反対するものに分裂した。少なくとも、社会主義ソ連への支持とルィセンコ主義批判とは両立した。しかし、概して日本では、社会主義ソ連を支持するものはルィセンコ主義を支持したし、ルィセンコ主義を強く批判した人に社会主義の支持者はほとんどいなかった。英国には、ソ連を介さなくてもマルクスやエンゲルスの思想についての豊富な知識と理解をもった左翼知識人は多くいたし、遺伝学を支持する多くのマルクス主義〔ママ〕がソ連にいたことも知られていた。しかし、ソ連共産党と政府が発表する公的文書に基づいて社会主義ソ連を理解するほかなかった当時の日本の左翼の中では、マルクス主義の見解=ソ連指導部の見解と解釈する傾向が、英国に比べはるかに強かった。また、マルクス主義の総本山とみなされていたソ連の理論的文献が本格的に日本に紹介されたのが、1930年のソ連哲学の転換、ミーチン哲学の台頭前後であったことを考えると、日本のマルクス主義陣営は、その後どのグループに属したかどうかにかかわらず、ミーチン主義的な傾向を共通の根として強くもっていたといえるだろう。そのことが、わが国がどの国にもましてルィセンコ主義の影響を強く受ける国となった理由の一つである。
 (「終章」本書222-223頁)

  自然科学に社会主義建設のための実用的価値しか見いださなかったミーチン (「第2章 文化革命下の哲学・遺伝学論争」本書107頁)

(学術出版会 2010年9月)