『岩波講座 世界歴史』 13 「東アジア・東南アジア伝統社会の形成」(岩波書店 1998年8月、97-119頁)所収。
いつ始まることか確定はできぬが、すくなくともモンゴル帝国のある時期以降、ウイグルという名詞は仏教徒一般を指す用語となった。〔略〕もとの「西ウイグル国」の領域の「ウイグル人」も、仏教徒であるかぎりにおいて自らを「ウイグル」と認識し、また他者からもそうみなされていたと考えられる。従って、イスラームに改宗すれば彼はもはやムスリムであり、「ウイグル」ではありえなかった。完全にイスラーム化したトゥルファン、ハミ領域からウイグルという名称が消えたのはこのためである。ついてながら、ウイグル・バフシということばも単に仏僧を意味したのであって、ティムール朝の大詩人、アリー・シール・ナヴァーイーの祖先がウイグル・バフシであったという記録は、必ずしも積極的に彼の「民族的出自」を証言するものではない。 (注(2) 本書118頁)
民族的出自を決定する際、二種類のアプローチがある。ひとつは、どこの国の法律の下に生きているかである。たとえばローマ法の下に毎日を暮らしていればローマ人といったように。その他、言語や風俗、人種など、客観的で外面的な尺度で判断する、これはヨーロッパ的な基準である。もうひとつは、自分は何者かという、主観的な自己認識である。これは東洋(ひじょうにおおざっぱな言い方だが)の基準である。たとえば中国の民族識別工作は、基本的に自己申告制で、まさしくこの基準に基づいて行われたものである。第三者が勝手に判断するのではなく、本人の意向を尊重する点に限っていえば、後者のほうが前者よりも優れていると言えるだろう。
ソ連の民族境界画定工作は、それとは反対に前者の思想の上に立って行われたものである(とくに言語を重視した)。そして、こんにちのソ連領中央アジアの民族問題の原因のかなりの部分が、この、まったくといっていいほど本人たちの帰属意識を考慮しなかった、旧ソ連による民族境界画定とそれにもとづく国家(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン)の樹立と国境の設定にあるのだが、ソ連崩壊後の新生中央アジア=西トルキスタンの国々が、旧ソ連の決めた基準とそれによって生み出された「国民国家」の枠組みと国民の帰属意識――ここには汎トルコ主義・汎ムスリム主義・ペルシア文明の破壊による分割統治および相互の反目対立の醸成という、きわめて政治的な目的もあった(注①)――を、そのまま守り、守るだけでなくさらにそれを強化しているようにさえ見えるのは一種の奇観である。
モグール〔モグーリスタン・ハーン国〕の攻勢の前に、嘉峪関外のイスラームを受容しなかった諸集団は陸続として甘粛へ流入した。これが、現在もこの地方が極めて複雑な民族組成を有する主な理由であると考えられる。ハミの仏教徒ウイグルは、ハミ衛〔衛は明朝時代の軍事組織の単位〕の都督であったエンゲ・ボラドに率いられて一五一三年に嘉峪に移住し、ついで粛州の東関(城壁の東側のアネックス)に定住した。おそらくこの時点以降、ハミ以西から仏教徒は姿を消し、同時にウイグルという名称も粛州近辺以外では忘れ去られた。 (同、102-103頁) (注②)
そしてその東の東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の高度の自治あるいは独立を目指す現代ウイグル人民族運動の人々も、かえってヨーロッパ式の民族識別基準に“退行”してしまっているように見える。伝統的な東アジアの民族意識では、自己認識が消えれば(あるいは変われば)、その人物は「~~人(族)」ではなくなるのである。この考え方でいけば、古代以来のウイグル民族は遅くとも16世紀には絶滅したのである。それだけではない。イスラム化したあともウズベク・カザフ・タジク・キルギスなど、部族の名称が残っていた西トルキスタンとはちがい、東トルキスタンでは、19-20世紀のみぎりまで、若干の例外を除き、みずからを「イスラム」の「どこの土地の者」としか自己を認識せず、「テュルク」であるというほかは、本来の民族の記憶がまったくといっていいほどなくなっていた(注③)。いまの「ウイグル人」の歴史とアイデンティティは人工的な記憶である(注④)。現代ウイグル人の民族運動はこの事実を認め、ここから新たに出発するべきではないか。いまさら19世紀風のナショナリズムを錦の御旗にするようであれば、おなじく19世紀ナショナリズムを振りかざす中華人民共和国を批判することはできないからだ。
注① オリヴィエ・ロワ著 斎藤かぐみ訳 『現代中央アジア イスラム、ナショナリズム、石油資源』(白水社、2007年4月)、「第二章 ロシアに征服とソヴィエト化」。
注② 彼らがハミから移住したとき、甘粛にはすでに、遊牧ウイグル帝国の瓦解後(8世紀半ば)にこの地に住み着いた甘州ウイグル(黄頭回鶻)がいた。現在の粛南ユグル族自治県および酒泉市黄泥堡裕固族郷に暮らすユグル族(裕固族)のうち西部ユグル語を話す人々がその子孫ではないかと言われている。彼らは仏教徒(チベット仏教)およびシャーマニズムの信者である。彼らのうちかなりの部分が固有の言葉を忘れ漢語しか話せなくなっているが、中国は彼らをユグル族として登録・処遇している。
注③ 羽田明 『中央アジア史研究』(臨川書店 1982年6月)、「第二章 清朝の東トルキスタン統治政策 第一節 序説――回部の起源――」、同書51頁。
「この東トルキスタンの住民は最近まで何ら固有種族名も地域名ももたず――一九三四年、ウイグル(維吾爾)の族称採用まで――、稀にペルシア人に倣って彼らの言語をトルコ語と称した以外には、唯ムスルマン(回教徒)、ムスルマン・ハルク(回教徒民族)、ムスルマン・ユルティ(回教徒国)、ムスルマン・ティリィ(回教徒語)などというのが普通であった。」 (同頁)
ちなみにこの第二章はもと、「異民族統治上から見たる清朝の回部統治政策」として『異民族の支那統治研究、清朝の辺境統治政策』(至文堂、1944年)に収録されたものである。
注④ たとえば「World Uyghur Congress(世界ウイグル会議)」のサイト(英語)の「Brief History of East Turkestan」欄には、"Records show that the Uyghurs have a history of more than 4000 years in East Turkistan."(諸史料によれば、ウイグル人は東トルキスタンの地において4000年をこえる歴史を持つ)と書かれている。
いつ始まることか確定はできぬが、すくなくともモンゴル帝国のある時期以降、ウイグルという名詞は仏教徒一般を指す用語となった。〔略〕もとの「西ウイグル国」の領域の「ウイグル人」も、仏教徒であるかぎりにおいて自らを「ウイグル」と認識し、また他者からもそうみなされていたと考えられる。従って、イスラームに改宗すれば彼はもはやムスリムであり、「ウイグル」ではありえなかった。完全にイスラーム化したトゥルファン、ハミ領域からウイグルという名称が消えたのはこのためである。ついてながら、ウイグル・バフシということばも単に仏僧を意味したのであって、ティムール朝の大詩人、アリー・シール・ナヴァーイーの祖先がウイグル・バフシであったという記録は、必ずしも積極的に彼の「民族的出自」を証言するものではない。 (注(2) 本書118頁)
民族的出自を決定する際、二種類のアプローチがある。ひとつは、どこの国の法律の下に生きているかである。たとえばローマ法の下に毎日を暮らしていればローマ人といったように。その他、言語や風俗、人種など、客観的で外面的な尺度で判断する、これはヨーロッパ的な基準である。もうひとつは、自分は何者かという、主観的な自己認識である。これは東洋(ひじょうにおおざっぱな言い方だが)の基準である。たとえば中国の民族識別工作は、基本的に自己申告制で、まさしくこの基準に基づいて行われたものである。第三者が勝手に判断するのではなく、本人の意向を尊重する点に限っていえば、後者のほうが前者よりも優れていると言えるだろう。
ソ連の民族境界画定工作は、それとは反対に前者の思想の上に立って行われたものである(とくに言語を重視した)。そして、こんにちのソ連領中央アジアの民族問題の原因のかなりの部分が、この、まったくといっていいほど本人たちの帰属意識を考慮しなかった、旧ソ連による民族境界画定とそれにもとづく国家(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン)の樹立と国境の設定にあるのだが、ソ連崩壊後の新生中央アジア=西トルキスタンの国々が、旧ソ連の決めた基準とそれによって生み出された「国民国家」の枠組みと国民の帰属意識――ここには汎トルコ主義・汎ムスリム主義・ペルシア文明の破壊による分割統治および相互の反目対立の醸成という、きわめて政治的な目的もあった(注①)――を、そのまま守り、守るだけでなくさらにそれを強化しているようにさえ見えるのは一種の奇観である。
モグール〔モグーリスタン・ハーン国〕の攻勢の前に、嘉峪関外のイスラームを受容しなかった諸集団は陸続として甘粛へ流入した。これが、現在もこの地方が極めて複雑な民族組成を有する主な理由であると考えられる。ハミの仏教徒ウイグルは、ハミ衛〔衛は明朝時代の軍事組織の単位〕の都督であったエンゲ・ボラドに率いられて一五一三年に嘉峪に移住し、ついで粛州の東関(城壁の東側のアネックス)に定住した。おそらくこの時点以降、ハミ以西から仏教徒は姿を消し、同時にウイグルという名称も粛州近辺以外では忘れ去られた。 (同、102-103頁) (注②)
そしてその東の東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の高度の自治あるいは独立を目指す現代ウイグル人民族運動の人々も、かえってヨーロッパ式の民族識別基準に“退行”してしまっているように見える。伝統的な東アジアの民族意識では、自己認識が消えれば(あるいは変われば)、その人物は「~~人(族)」ではなくなるのである。この考え方でいけば、古代以来のウイグル民族は遅くとも16世紀には絶滅したのである。それだけではない。イスラム化したあともウズベク・カザフ・タジク・キルギスなど、部族の名称が残っていた西トルキスタンとはちがい、東トルキスタンでは、19-20世紀のみぎりまで、若干の例外を除き、みずからを「イスラム」の「どこの土地の者」としか自己を認識せず、「テュルク」であるというほかは、本来の民族の記憶がまったくといっていいほどなくなっていた(注③)。いまの「ウイグル人」の歴史とアイデンティティは人工的な記憶である(注④)。現代ウイグル人の民族運動はこの事実を認め、ここから新たに出発するべきではないか。いまさら19世紀風のナショナリズムを錦の御旗にするようであれば、おなじく19世紀ナショナリズムを振りかざす中華人民共和国を批判することはできないからだ。
注① オリヴィエ・ロワ著 斎藤かぐみ訳 『現代中央アジア イスラム、ナショナリズム、石油資源』(白水社、2007年4月)、「第二章 ロシアに征服とソヴィエト化」。
注② 彼らがハミから移住したとき、甘粛にはすでに、遊牧ウイグル帝国の瓦解後(8世紀半ば)にこの地に住み着いた甘州ウイグル(黄頭回鶻)がいた。現在の粛南ユグル族自治県および酒泉市黄泥堡裕固族郷に暮らすユグル族(裕固族)のうち西部ユグル語を話す人々がその子孫ではないかと言われている。彼らは仏教徒(チベット仏教)およびシャーマニズムの信者である。彼らのうちかなりの部分が固有の言葉を忘れ漢語しか話せなくなっているが、中国は彼らをユグル族として登録・処遇している。
注③ 羽田明 『中央アジア史研究』(臨川書店 1982年6月)、「第二章 清朝の東トルキスタン統治政策 第一節 序説――回部の起源――」、同書51頁。
「この東トルキスタンの住民は最近まで何ら固有種族名も地域名ももたず――一九三四年、ウイグル(維吾爾)の族称採用まで――、稀にペルシア人に倣って彼らの言語をトルコ語と称した以外には、唯ムスルマン(回教徒)、ムスルマン・ハルク(回教徒民族)、ムスルマン・ユルティ(回教徒国)、ムスルマン・ティリィ(回教徒語)などというのが普通であった。」 (同頁)
ちなみにこの第二章はもと、「異民族統治上から見たる清朝の回部統治政策」として『異民族の支那統治研究、清朝の辺境統治政策』(至文堂、1944年)に収録されたものである。
注④ たとえば「World Uyghur Congress(世界ウイグル会議)」のサイト(英語)の「Brief History of East Turkestan」欄には、"Records show that the Uyghurs have a history of more than 4000 years in East Turkistan."(諸史料によれば、ウイグル人は東トルキスタンの地において4000年をこえる歴史を持つ)と書かれている。