「出身論」原文〈
http://obelia2.blogspot.com/2009/05/blog-post.html〉
日本語訳(前半)〈
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/fda3463278457e60f2a5c683ed9851c9〉
中国の血統論はやはり血統による「資格」(身分)を云々するものであった。金一族の権力継承を正当化する北朝鮮の“血統論”のように、血統ゆえの先天的な「資質」を云々するものではない。かえってそれを批判した遇羅克の「出身論」のほうが、個人的な「資質」と努力とを全面に押し出す格好になっている。
譚力夫「血統論」とは、
「老子英雄兒好漢/老子反動兒混蛋/基本如此」(親父が英雄なら息子は英雄、親父が反動なら息子はクズ、基本はこうだ)というだけの、本来ならば“論”というに値しない、いわば便所の落書きのようなものである。(実際、壁に貼られた紙の上に書かれたもので、本当に落書きであった。しかもこれは親父の七光りで出世した譚が、自分の享受する特権を正当化するために書いたという、じつに卑近な事情から生まれたものだった。自分にはその資格があると。)
それに対する遇羅克は、それを意図してかどうかまではわからないが、譚の主張を一般論としてとらえ、それは間違っているという主張を展開した。血統あるいはもう少しひろく採って家庭環境よりも、また本人の資質、そして努力、つきつめればこうありたいと自分の人生のありかたを選び取る個人の意思こそが、その人間の何たるかを形成すると。
もっとも遇は、最初に「社会の影響」のほうが「家庭の影響」よりも大きいという主張を持ってくるのだが、全文を読んでいると、どうもこれは共産主義者、毛沢東主義者としての冒頭宣誓の類ではなかったかと思える。一応の会釈とか果ては煙幕とまではいわない。遇は本当にそう思っていただろう。だが、正直なところは第一の重点ではなかったのではないかという印象を受けるということである。
朋友的琢磨,領導的教導,報紙、書籍、文學、藝術的宣傳,習俗的熏染,工作的陶冶等等,都會給一個人以不可磨滅的影響,這些統稱社會影響。
(友人との切磋琢磨、指導者の指導、新聞・書籍・文学・芸術の宣伝、社会の習慣の影響、仕事での訓練など、そのどれもが個人に、決して消えさることのない影響を与える。これらを総称して社会の影響という。)
というくだりを読むとき、その感を強くする。
即使是家庭影響,也是社會影響的一部分。一個人家庭影響的好壞,不能機械地以老子如何而定。英雄的老子,反動的媽媽,影響未必是好的。父母都是英雄,子女卻流於放任,有時更糟糕。父母思想好,教育方法如果簡單生硬,效果也會適得其反。同樣,老子不好,家庭影響未必一定不好,列寧就是例證。總之,一個人的家庭影響是好是壞,是不能機械地以出身判定的。出身只是家庭影響的參考。
(家庭の影響なるものもまた、社会の影響の一部なのである。個人にとって家庭の影響のよいか悪いかで、親父がどうであれば息子も同じなどと機械的に言えるものではない。親父が英雄でも母親が反動だったら、その影響は必ずしもよいとは限らない。父母がともに英雄であっても、子女が放置されたら、そうでない場合よりもひどいことになりかねない。父母の思想がよくても、教育方法が粗末で融通の利かないものであれば、やはり逆効果となるだろう。同様に、親父が悪くても、家庭の影響は必ずしも悪いとは限らないのである。レーニンがそのいい例である。つまり、個人の家庭の影響のよしあしは、機械的に出身で判断することはできないのだ。出身は、家庭の影響の参考にしかすぎない。)
「つまり、」遇羅克は「氏より育ち」と、現代人として常識的なことを言って殺されたのだった。