『墨子』の思想的貢献を、矛盾律の発見および明確な認識に求めているのは目新しい(というか、こののちあまり注目されていない)点である。むろんこの矛盾律は西洋形式論理におけるそれであること、言うまでもない(注)。このことは文中でも明言されている(241頁)。ちなみに、このシリーズ全5巻6冊を通じて、論理(逻辑)とは、ただひとつの例外もなく、西洋形式論理学のそれを意味している。ただしときに認識論の意味をも含む場合もある。
注。平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』のなかで、マテオ・リッチが、古代漢語によくある「甲は乙であり、而して乙でない」を、西洋語に訳するに当たって、そこをとばして意訳したというエピソードが紹介されている。形式論理では「AはBである」と同時に「AはBでない」というのは矛盾であり、ヨーロッパの読者に理解してもらえないとリッチが慮ったからだろうと、平川氏は推測している。おそらくそうであろう。リッチは17世紀の人である。紀元前にあった矛盾律の概念が、まさに「枯死」(津田左右吉)し、その後ながらく中国では存在しなかったということである。一つの言葉をちがう意味で使用するのはレトリックとしては面白いし、中国では伝統的にこのレトリックを多用しているのも事実だが(おそらく対句の多用と関係があろう)、論理として見たときにこの論法が破綻していることは、常に念頭に留めておく必要があろう。日本語でもわりあい見られるレトリックである。これをやると問題の論点が逸れて、それ以上分析ができなくなる。現代中国人と対話が困難な大きな理由の一つは、彼らですら往々にしてこの矛盾律を完全に理解していないところにある。こう言えば思い半ばに過ぐる方もおられよう。
ただ、この巻で残念なのは、墨家の論理学を説きながら、言及される『墨子』本文を見る限り、論理編ともいうべき「経篇」上下、「経説篇」上下、および「大取篇」「小取篇」からの引用がほとんどないことだ。孫詒譲の解釈の危うさを暗黙のうちに示唆しているのか、あるいは単純に著者たちには荷が重かったのか、どちらであろうか。とまれ、その埋め合わせのためであろう、ヘーゲルの弁証論の紹介と、それに照らして『墨子』の論理学がいかにヘーゲルのそれに近いものであったかの説明が、縷々くり広げられる(249-251頁)。
(北京 人民出版社 1957年月)
注。平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』のなかで、マテオ・リッチが、古代漢語によくある「甲は乙であり、而して乙でない」を、西洋語に訳するに当たって、そこをとばして意訳したというエピソードが紹介されている。形式論理では「AはBである」と同時に「AはBでない」というのは矛盾であり、ヨーロッパの読者に理解してもらえないとリッチが慮ったからだろうと、平川氏は推測している。おそらくそうであろう。リッチは17世紀の人である。紀元前にあった矛盾律の概念が、まさに「枯死」(津田左右吉)し、その後ながらく中国では存在しなかったということである。一つの言葉をちがう意味で使用するのはレトリックとしては面白いし、中国では伝統的にこのレトリックを多用しているのも事実だが(おそらく対句の多用と関係があろう)、論理として見たときにこの論法が破綻していることは、常に念頭に留めておく必要があろう。日本語でもわりあい見られるレトリックである。これをやると問題の論点が逸れて、それ以上分析ができなくなる。現代中国人と対話が困難な大きな理由の一つは、彼らですら往々にしてこの矛盾律を完全に理解していないところにある。こう言えば思い半ばに過ぐる方もおられよう。
ただ、この巻で残念なのは、墨家の論理学を説きながら、言及される『墨子』本文を見る限り、論理編ともいうべき「経篇」上下、「経説篇」上下、および「大取篇」「小取篇」からの引用がほとんどないことだ。孫詒譲の解釈の危うさを暗黙のうちに示唆しているのか、あるいは単純に著者たちには荷が重かったのか、どちらであろうか。とまれ、その埋め合わせのためであろう、ヘーゲルの弁証論の紹介と、それに照らして『墨子』の論理学がいかにヘーゲルのそれに近いものであったかの説明が、縷々くり広げられる(249-251頁)。
(北京 人民出版社 1957年月)