書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

侯外廬/趙紀彬/杜国庠 『中国思想通史』 第1巻 「古代思想」

2012年01月24日 | 東洋史
 『墨子』の思想的貢献を、矛盾律の発見および明確な認識に求めているのは目新しい(というか、こののちあまり注目されていない)点である。むろんこの矛盾律は西洋形式論理におけるそれであること、言うまでもない(注)。このことは文中でも明言されている(241頁)。ちなみに、このシリーズ全5巻6冊を通じて、論理(逻辑)とは、ただひとつの例外もなく、西洋形式論理学のそれを意味している。ただしときに認識論の意味をも含む場合もある。

 。平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』のなかで、マテオ・リッチが、古代漢語によくある「甲は乙であり、而して乙でない」を、西洋語に訳するに当たって、そこをとばして意訳したというエピソードが紹介されている。形式論理では「AはBである」と同時に「AはBでない」というのは矛盾であり、ヨーロッパの読者に理解してもらえないとリッチが慮ったからだろうと、平川氏は推測している。おそらくそうであろう。リッチは17世紀の人である。紀元前にあった矛盾律の概念が、まさに「枯死」(津田左右吉)し、その後ながらく中国では存在しなかったということである。一つの言葉をちがう意味で使用するのはレトリックとしては面白いし、中国では伝統的にこのレトリックを多用しているのも事実だが(おそらく対句の多用と関係があろう)、論理として見たときにこの論法が破綻していることは、常に念頭に留めておく必要があろう。日本語でもわりあい見られるレトリックである。これをやると問題の論点が逸れて、それ以上分析ができなくなる。現代中国人と対話が困難な大きな理由の一つは、彼らですら往々にしてこの矛盾律を完全に理解していないところにある。こう言えば思い半ばに過ぐる方もおられよう。
  
 ただ、この巻で残念なのは、墨家の論理学を説きながら、言及される『墨子』本文を見る限り、論理編ともいうべき「経篇」上下、「経説篇」上下、および「大取篇」「小取篇」からの引用がほとんどないことだ。孫詒譲の解釈の危うさを暗黙のうちに示唆しているのか、あるいは単純に著者たちには荷が重かったのか、どちらであろうか。とまれ、その埋め合わせのためであろう、ヘーゲルの弁証論の紹介と、それに照らして『墨子』の論理学がいかにヘーゲルのそれに近いものであったかの説明が、縷々くり広げられる(249-251頁)。

(北京 人民出版社 1957年月)

「『中国はグローバルリーダーになれない』 デービッド・カン教授インタビュー」

2012年01月24日 | 現代史
▲「Chosun Online | 朝鮮日報」2012/01/24 08:55、金信栄(キム・シンヨン)特派員。 (部分)
 〈http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/01/24/2012012400117_2.html

 「中国が改革開放を推進して以来30年もの間、中国の価値観とは『裕福になろう』というものだった。中国人は実際に以前よりもはるかに豊かになり、プライドも回復した。一方で『尊敬される大国になるためには、富の増加ではなく、多くのものが必要だ』という点を考える次の段階に進んだと言える。中国政府は最近、『価値』『文化』という単語を頻繁に使っている。孔子を再び引き合いに出し、国家の文化的象徴のように宣伝している例が代表的だ。しかし、平和と調和を唱える孔子は、国民を抑圧する今の中国政府には似合わない。中国的価値観と見なすには十分ではない」

 孔子を持ち出すのは苦し紛れという見方は面白い。