▲「池田信夫 blog part 2」2012年01月19日 11:40。
〈http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51768924.html〉
自然・社会科学のことは知らないが、人文科学の論文には、査読はいらないかもしれない。すでに相互査読のようなものだし、あっても、つまるところ根拠さえ押さえておけば解釈の違いということで、結局はけなしあい、足の引っ張り合いになると内輪話を聞いたことがある。
その内輪話がどこまで正しいのかはしらないが、そもそも解答が一つではない人文科学、さらに演繹を使わず帰納ばかりを専らにする歴史学(私が知るのは東洋史学)なら、ありうべき話だろうと思った。(ついでに言えば文献史料を重視しないポストモダン系の歴史学派では、この傾向が一層甚しいらしい。)
私は翻訳をしているが、翻訳というのは人文科学よりもさらに客観的な判断基準がない。あからさまに文法的に誤訳してなければ――あるいはよしんばそうであったとしても――、「文脈を踏まえた意訳」「文学的見地からの超訳」などと、いくらでも弁護できるし、またそれらの弁護には一理あることが多い。というか、私もそうだが大抵の翻訳者は「この原文にはこの訳文こそ」と、信念とそれを支える根拠をもって仕事をしているので、それぞれが正しいといえば正しいといえるのである。
ここで話はまた元に戻るのだが、解が複数ありえる(あるいはその状態と好しとする)学問分野では、査読は基本的に必要ないと、私は思う。論文発表後の相互批評・批判あるいは論争で十分だろうと思うが如何。
〈http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51768924.html〉
自然・社会科学のことは知らないが、人文科学の論文には、査読はいらないかもしれない。すでに相互査読のようなものだし、あっても、つまるところ根拠さえ押さえておけば解釈の違いということで、結局はけなしあい、足の引っ張り合いになると内輪話を聞いたことがある。
その内輪話がどこまで正しいのかはしらないが、そもそも解答が一つではない人文科学、さらに演繹を使わず帰納ばかりを専らにする歴史学(私が知るのは東洋史学)なら、ありうべき話だろうと思った。(ついでに言えば文献史料を重視しないポストモダン系の歴史学派では、この傾向が一層甚しいらしい。)
私は翻訳をしているが、翻訳というのは人文科学よりもさらに客観的な判断基準がない。あからさまに文法的に誤訳してなければ――あるいはよしんばそうであったとしても――、「文脈を踏まえた意訳」「文学的見地からの超訳」などと、いくらでも弁護できるし、またそれらの弁護には一理あることが多い。というか、私もそうだが大抵の翻訳者は「この原文にはこの訳文こそ」と、信念とそれを支える根拠をもって仕事をしているので、それぞれが正しいといえば正しいといえるのである。
ここで話はまた元に戻るのだが、解が複数ありえる(あるいはその状態と好しとする)学問分野では、査読は基本的に必要ないと、私は思う。論文発表後の相互批評・批判あるいは論争で十分だろうと思うが如何。