書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「サイエンス2.0」 を読んで

2012年01月19日 | 人文科学
▲「池田信夫 blog part 2」2012年01月19日 11:40。
 〈http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51768924.html

 自然・社会科学のことは知らないが、人文科学の論文には、査読はいらないかもしれない。すでに相互査読のようなものだし、あっても、つまるところ根拠さえ押さえておけば解釈の違いということで、結局はけなしあい、足の引っ張り合いになると内輪話を聞いたことがある。
 その内輪話がどこまで正しいのかはしらないが、そもそも解答が一つではない人文科学、さらに演繹を使わず帰納ばかりを専らにする歴史学(私が知るのは東洋史学)なら、ありうべき話だろうと思った。(ついでに言えば文献史料を重視しないポストモダン系の歴史学派では、この傾向が一層甚しいらしい。)
 私は翻訳をしているが、翻訳というのは人文科学よりもさらに客観的な判断基準がない。あからさまに文法的に誤訳してなければ――あるいはよしんばそうであったとしても――、「文脈を踏まえた意訳」「文学的見地からの超訳」などと、いくらでも弁護できるし、またそれらの弁護には一理あることが多い。というか、私もそうだが大抵の翻訳者は「この原文にはこの訳文こそ」と、信念とそれを支える根拠をもって仕事をしているので、それぞれが正しいといえば正しいといえるのである。
 ここで話はまた元に戻るのだが、解が複数ありえる(あるいはその状態と好しとする)学問分野では、査読は基本的に必要ないと、私は思う。論文発表後の相互批評・批判あるいは論争で十分だろうと思うが如何。

YouTube で田中慎弥氏ノーカット会見を見る

2012年01月19日 | 芸術
「『石原知事に逆襲』芥川賞の田中氏ノーカット会見(12/01/18」
 〈http://www.youtube.com/watch?v=E6cSNDAqJvA

 演技もあると思うが、この人は、自分でも言うように、本当に礼儀知らずなのだろうと思った。
 しかしそれだからといって、有田芳生氏のように、「シャイで正直」と褒めるのはおかしくはないだろうか。「シャイで正直」なら「無礼」でもいいというのは、違うだろう。
 もっとも、田中氏が礼儀知らずだからいけないという気は私にはない。芸術家が、世間のルールを弁えていなければならない義理はない。社会性はあったほうが何かと実生活において都合はよいが、なくても別に構わないくらいのものではないか。作品(結果)が全てだから。基本的にプロはそうだろうが、創造性至上の芸術家はとりわけそうでは。プロとは、「それで生活している人間」という定義があるが(たとえば柳沢きみお氏。『大市民』シリーズにおける)、では、勤め人を、プロのサラリーマンというか。アルバイトでとにかく暮らせている飲食店店員を、接客業のプロというか。簡単にいえば、マニュアルに従って仕事をする、考える、生きる人間を、「プロ」と呼んで良いのかと言う問題である。特に芸術家においては、かえって常識なく性格的にも破綻している人間のほうが、傑作を生み出せるかも知れない。
 そんな人間と、世間の側は厭なら会わなければいいし、芸術家のほうは迫害されたくなければ表に出なければいい。お互いに不幸な目に遇うだけだろうから。もっともこの勝負、芸術家のほうが分が悪いだろう。”末路哀れは承知の上”の道であるが故に。