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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

友田博道編 『ベトナム町並み観光ガイド』

2011年05月12日 | その他
 歴史的町並み保存の団体で働いていたことがあって、こういったことにも興味がある。先日の沖縄でも、とっくりと古今の家並みを見てきた。
 マレーシアとインドネシアとシンガポールの町家(townhouse)は、現地を訪れてこの目で確かめたこともあり、多少知っているが、どれもいわゆるウナギの寝床というやつで、その点、京都や奈良の町家と軌を同じくしている。この本によるとベトナムもそうらしい。しかも書中図面を見ると坪庭まである(ホイアン、113頁。ただし必ずしも二階建てではないらしい)。なぜだろう。そもそも日本の町屋がそうなのもよく分からない。間口の広さに比例してかかる税金を嫌ってという説明を長らく聞いてきたが、それは俗説だともいうし、ますます分からない。違うのはフランスの影響を受けたのであろう、洋風でファサードの押し出しが強い、いわば最初から看板建築風なものが見られるところだが、これはシンガポールのコロニアルスタイルのタウンハウスではよくある形式だから、ことさら異とするには当たらないだろう。ベトナムはフランスの植民地だったのだから。

(岩波書店 2003年6月)

下川裕治/仲村清司著・編 『新書 沖縄読本』

2011年05月11日 | 人文科学
 沖縄ブームの火付け役の一端を担った両者が、その終息ともいわれるこんにちの時期に際して、「落とし前をつけ」るため、“癒しの島”でも“楽園”でもない、“問題の山積した南の島”、ただ“「ゆるさ」というエネルギー”だけは確かにある、沖縄県の現状ひいては現実――沖縄ブームの結果、物的にも心的にも本土の人間に荒らされたという面も含めて――を、本土人に伝えるべく書いたとのこと。おそらくは懺悔の念を籠めて。
 文中、その山積する“問題”についてはもちろんのことだが、おそらくはブームのさなかなら決して取り上げることができなかったであろう沖縄本島人による伝統的な先島人(宮古・八重山諸島の住民)差別についても、隠すことなく書いている。たとえば先島では明治36年まで、沖縄本島でも施行されなかった人頭税が行われていたことなど(事実自体は司馬遼太郎氏がすでに『街道をゆく』で指摘しているが)。そして宮古・八重山の人たちが、自分たちを決して沖縄人(ウチナーンチュ)と呼ばないこと(先島差別については司馬さんも触れていない)。ちなみに著者のひとり仲村氏は本土生まれとはいえ沖縄人である(現在は沖縄在住)。えらいものだと思った。

(講談社 2011年2月)

YouTube 「Rina Chinen - Club Zipangu_1999」

2011年05月10日 | 音楽
 〈http://www.youtube.com/watch?v=M1MYusHlLIc&feature=related

 沖縄といえば、知念里奈さん、私的には。その知念里奈さんの最高傑作「Club Zipangu」、同じく私的には。
 “スゴイ、スゴイ”のところの振り付けが忘れられないくらい強烈でした。PVより生のステージのほうがインパクト強いことこれ不思議。このビデオ長いこと見たかったんですよ。
 『夜もヒッパレ』好きだったしね。

YouTube 「芭蕉布」

2011年05月10日 | 音楽
 〈http://www.youtube.com/watch?v=HkQl5TNbO2c&feature=related

 こちらもいい。世間的には沖縄ブームは終わったそうだが、私はこれから沖縄迷(中国語風表現)である。前回は首里城や識名園ほか名所旧跡と博物館巡りで2泊3日の殆どを費やしてしまったので、次は沖縄民謡と舞踏を存分に楽しみたい。
 もともと自分の部屋の窓から播磨灘と淡路島が見える、海にちかしい土地で生まれ育ったせいか、この十数年の内陸京都ぐらしは、心にも体にも思わぬひすみを加えていたようだ。研究上の必要はあるものの、黒潮洗う土佐と紀州へ行きたくてかなわぬ。『南方熊楠全集』は別巻もふくめて読み終わったが、まだ田辺の顕彰館(南方邸)へは行っていない。口惜しや口惜しや。坂本龍馬を好きなのは、なによりもまず土佐の人だからだろう。私は桂浜から見る南国の海が大好きだ。皿鉢料理と本場の鰹のたたきを食いに行きたい。ただし日本酒は苦手。私は焼酎党です。泡盛、黒糖焼酎、芋焼酎(南方やねえ)、それから米焼酎(日本人だねえ)。

名波正晴著 ブー・トアン写真協力 『ゆれるベトナム』

2011年05月10日 | その他
 こちこちに思想(あたま)も体制――社会ではない――も固いから、衝撃を与えられるとかえって激しく震動して揺れるのだろうという感想。中学の歴史教科書のあまりに硬直して教条主義的なことに驚いた経験からの印象である。
 しかしそれにしてもベトナムの主要民族(狭義のベトナム人)であるキン族(京族)が、京(みやこ)に住むから自らそう名乗ったという由来噺は、何度聞いてもある種おかしみを覚える。“みやこびと”という民族名である。もっともこの“京”はもっと広く平野部の意味だと名波氏は言うが、平野部つまり都市のことだろう。自分たちは都会に住んでいるのだ、山にすむ田舎者の夷どもとは違うぞということで(ベトナム人=キン族にも古来中華思想があった)、つまりはみやこびとということだろう。すごい自負心だなあと。
 なお名波氏によれば1986年のドイモイ開始後、ベトナムの党・政府はそれまでの少数民族のキン族同化政策をあらためて多民族共存政策に乗り出しているというのだが、既出中学歴史教科書を見る限り、そういった姿勢はあまり反映されていない。正直なところ、言葉を濁しているといった感を受けた。
 著者は共同通信の元ハノイ支局長(98年4月~99年6月)。この本は、著者も自負するように、その都市部(みやこ)からではなく山からベトナムを眺めたルポである。自然、農民や少数民族の人々の毎日が中心テーマとなる。とてもおもしろかった。

(凱風社 2001年8月)

「Uyghurs Push Self-Determination」 を読んで

2011年05月10日 | 思考の断片
▲「RFA Home」2011-05-10, reported by Parameswaran Ponnudurai.
 〈http://www.rfa.org/english/news/uyghur/uyghurs-05102011012120.html

  Uyghurs in Xinjiang say they have long suffered ethnic discrimination, oppressive religious controls, and continued poverty and joblessness despite China's ambitious plans to develop its vast northwestern frontier.

 1921年以前には名前もなくそして実体としての自覚すらもほとんど存在しなかった民族が "have long suffered ethnic discrimination" できるわけないでしょう。
 それに、あなた方は(百歩譲ってタリム盆地オアシスに住むテユルク語を話すイスラム教徒がぞれぞれ個々の都市を超えて一体感を持っていたとして)、誰も差別したことはないのか。中国人(漢人)に対してはあなた方は確かに弱者であり被害者だろう。そのことに関して私はあなた方に同情する。そしてあなたがたが独立を望むなら私はそれを支持する。自決、自分の運命を自分で決めるのは当然のことだ。しかし自分たちを百%の被害者と言うのはやめてほしい。それは嘘だから。嘘をつく人の唱える正義はうさんくさい、闘う相手のそれ同様に。チベット自治運動にくらべて、ウイグル人独立(あるいは自治、あるいは自決)運動のほうは、どうもこのうさんくささが強い印象を受ける。早い話が、天山北部のジュンガリアがどうしてあなた方の言う東トルキスタンに入っているのか。答えられるか。

グエン・スアン・オアイン著 片岡利昭訳 『ドイモイよ蘇れ』

2011年05月10日 | 東洋史
 副題「ゆたかな社会をめざして 発展的ドイモイの提言」。

 裏表紙の著者紹介によると、著者はドイモイ経済政策をベトナム政府に採用させた人物らしい。原書は2000年、ホーチミン市で出版(奥付の記載)。
 当時所期の成果を上げることができず停滞していたドイモイ政策を懸念した著者が、さらなる改革案を提案したもの。出版後著者は死去し、この日本語訳は死後の出版となった(「訳者あとがき」による)。
 ドイモイの背景や評価を含め、そのことはいまは措く。

 彼ら〔大規模地主〕は人民裁判にかけられると、「寄生虫」との判決がくだされて、その土地は没収され農地は弱小貧農に配分された。このようにして、数十万台の農機具や多くの家畜とともに約八〇万ヘクタールの土地が押収された。多くの歴史学者は、このような人民裁判で大地主にたいして反動分子と下した判決を、厳しく非難し非道な決断だとみている。これはベトナムの、近年の経済史における暗い部分である。(「第一部 ドイモイへの道」「第一章 一九七五年までの計画経済とその実績評価」 本書28頁)

 つい数年前でも、この1956年に北ベトナムでおこなわれた大規模な地主迫害について、その事実を言いよどむむきが我が国の一部のリベラル・市民派に見られたが、あれはいったいどういうことだったのだろう。このように、当のベトナム人(政府関係者、つまり国家が)認めているというのにである。開高健の『ベトナム戦記』(1965年)は大いに持ち上げて米国の非をならすが、同じ開高の『サイゴンの十字架』には頬被りを決め込むという彼らの知的良心には、それこそ大いに疑問を感じた。開高は、後者において、早く1973年の時点で、北から南へと逃げてきたベトナム人の証言とともに、この大迫害(開高は農民、知識人に対するそれと形容している)について触れているのである。まさか知らなかったわけではあるまい。そういう傾いた思考の人たちに、日本人は中国人に対して正しい歴史認識で謝罪しろ、ドイツを見習えといわれても、はいそうですかとは首肯しかねた。

(ビスタ ピー・エス 2003年9月)

「馬総統『私は反日派ではない』=日本統治時代の日本人技師たたえる記念公園の開園式典で―台湾」 から

2011年05月09日 | 抜き書き
▲「レコードチャイナ」2011-05-09 14:39:08、翻訳・編集/NN。
 〈http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=51171

 2011年5月8日、台湾の馬英九(マー・インジウ)総統は日本統治時代の台湾南部でダムの建設など農業水利事業に貢献した日本人技師、八田与一氏の功績をたたえる記念公園の開園式典で、「自分は『反日派』ではない。『友日派』だ」と述べた。米華字サイト・多維新聞が伝えた。

 尖閣諸島の帰属をめぐって「日本と一戦も辞さず」とまで言ったそのおなじ人間が、どうして平然とこういうことを口に出来るかな。馬氏は米国式の政治家みたいだし、やはり scumbags の一人なのだろうか。

司馬遼太郎 『街道をゆく』 6 「沖縄・先島への道」

2011年05月09日 | 人文科学
 復帰後数年後の沖縄諸島訪問記。高校生の時分に読んだきりで、最後の、いやがる地元の娘の尻を追いかけて司馬さんの一行にそれを咎められるや「本土が沖縄に何をしたか、知っているか」と、逆に――それさえ言えばすべて正当化されるとでも思っているように――絡んできた、本土から来た薄っぺらい学生のエピソード以外、すっかり忘れていた。
 中学・高校のころの私は、何事についても感じたり考えたりすることが鈍かった。まるでずっと寝ていたかのようで、従ってとんと記憶が薄い。自分でも驚くことがある。
 それはさておき、竹富島の祝詞で、南朝の懐良(かねなが)親王が「良懐(なーる金〔かに〕)」と名前が上下ひっくり返っていることについて、司馬氏は「懐良(かねなが)が良懐(ながかね)になっているのはどういうことだろうと思うが、門外漢の私には異議をさしはさむ能力がない」と述べている。
 このくだりを読んで、私は、これは中国側の表記が関係しているのではないかと思った。『明史』の「日本伝」では「良懐」となっていた記憶がある。
 そこで手始めに「ウィキペディア」の「懐良親王」項を見てみた。親王は「日本国王良懐」として明朝から冊封を受けたとあった。それは知っている。ただし出典は『明史』ではなく『明太祖実録』となっている。私の記憶違いであろうか。次いで「ウィキペディア」中国語版のほうを見てみた。こちらは関連資料として『明史』「日本伝」を挙げてある。見るとたしかにそこでも「良懐」と書かれていた。『明史』「日本伝」は『明太祖実録』を史料の一つとして書かれたはずだから、両方ともそうなのは当然といえば当然ではある。

(朝日新聞社 1975年5月第1刷 1994年11月第9刷)