前項よりつづく。
ただ、沖縄の旧慣をなるべく変えないという中央政府の方針は、たしかにそれは現地の事情を考慮して本土の政策をそのまま押し付けることはしなかったということには間違いないが、反面それは無責任な事なかれ主義ということでもあったのであり、そのおかげでかえって沖縄は王朝時代の陋習弊制が長くそのままのこり、おくれたままに置かれたとも言っていて、決して明治政府の措置を何から何まで礼賛しているわけではない(注)。
注。「県となるのに十年もおくれ、県となってからも十年もおくらされて、二十年のおくれで、二十七、八年戦役の日清戦争によって日本の強いことがわからされ、二十三年十月三十日に発布された教育勅語が暗誦させられ、そうして明治十五年から十五年後の明治三十年にようやく番所蔵元が廃せられて間切役場が置かれ、一般人に断髪令が下るということになって、これで三十年の後れをとった。」(下巻「第二十三講 沖縄近代庶民史」同書390頁)
番所・蔵元とは琉球王国時代の地方役所。間切役所とは明治後に置かれた近代国家の概念にもとづく役所。
筆者
新屋敷幸繁氏については、私はこの書以外に知るところがない。その本書で見る限り、氏は明確な本土復帰派であり(ちなみに沖縄返還はこの書の出版の翌年である)、沖縄は歴史的にみても文化的あるいは民族的に見ても日本の一部であるという立場の人である。その根拠と主張がとくに古代から近世初頭までを扱う上巻で学術的に展開されている。ただし、盲目的な中央志向のひとではなく、どちらかといえば「本土が沖縄に復帰するのだ」というに近い姿勢の人物であったようである。下巻「序文 沖縄の歴史を持つ日本は幸せである」参照。
(雄山閣 1971年10月)