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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「おしゃれな留学は過去…韓国、年10万人が比留学」 を読んで

2011年05月19日 | 思考の断片
▲「msn 産経ニュース」2011.5.19 14:39。(2/2ページ)
 〈http://sankei.jp.msn.com/life/news/110519/edc11051914410001-n1.htm

 留学ジャーナル大阪支店長の小林良美さんは言う。「おしゃれに英語を学ぶなどと言ってる余裕はなくなってきました。フィリピン留学は、日本でもブレークすると思います」

 “おしゃれに英語を学ぶなどと言って”いたのは、その人に、切実には英語を学ぶ必要がなかったから。多分これからもあまりあるまい。これは「英語力がなければ進学も就職もままならない韓国」の話と、この記事を書いた記者本人も認めているではないか(1/1)。日本のどこにこれまで、「英語力がなければ進学も就職もままならない」状況があったか。またこれからいつそうなるのか。何、当たるも八卦当たらぬも八卦とな? 

レフ・トルストイ他著 平民社訳 国書刊行会編集部現代語訳 『現代文 トルストイの日露戦争論』

2011年05月19日 | 世界史
 2011年04月20日「Leo Tolstoy 『Bethink Yourselves!』」より続き。現代日本文としてはこれでいいのだろうが、「ロンドン・タイムズ」英語原文の現代日本語訳、ひいては平民社のもとの文語文の現代語訳としてはどうだろうという気もする。だがそれはもう客観的基準のない、好みの範疇である。
 それよりその訳者の名がどこにもないことのほうが奇妙で、理解に苦しむ。平民社訳のほうは、別の場所でではあるが、訳者の幸徳秋水が「自分と堺利彦の二人でやった」と、はっきり名乗りを上げているのにである。
 それにしても、今回添付された「フィガロ」紙のトルストイインタビューと、トルストイの「汝等悔い改めよ」を掲載した「ロンドン・タイムズ」紙の評論には驚き呆れるばかりである。「フィガロ」の記者は「人種差別など認めない。人類は良いも悪いも平等である」というトルストイの主張にたいし、哀れみの感情を籠めて(行間から明らかに臭ってくる)、「日本人は黄色人種ですよ。黄色人種というのは劣等にきまっているじゃないですか。そして日本人というのはそのなかでもとりわけ好戦的で、野蛮なやつらです。彼らを徹底的に打ち負かして文明の何たるかを教えてやるのが白人の務めであり神聖な使命でもあるんですよ。ま、ロシア人は白人で、白人が黄色人種に敗けるはずはありませんけどね」と、トルストイを教え諭すような調子で終始揶揄している。(あまりに全編侮蔑的な調子なので、こちらもその雰囲気にあわせて再編・意訳した。)それにしてもトルストイはよく怒り出さなかったものだ。
 つづく「ロンドン・タイムズ」の評論になると、ロシア人をも半アジア人扱いである。トルストイは「ヨーロッパ思想を完全に理解していないスラブ民族の思想家」であり、よって「純粋なヨーロッパ諸国民の考え方との間」には「著しい相違がある」のだそうである。その結果、トルストイの論説は、「十三世紀の論理と近世の社会主義を混同し、調子の乱れた議論」と決めつけられる。だから、「全ての戦争を絶対的な罪悪と見なす」独断の誤りに気が付かないと言う。「ロンドン・タイムズ」の評論子によれば、「自国の行う戦争は正義で、他国の行う戦争は悪である」というのが真理なのである。「フィガロ」の「白人の戦争は正義で、有色人種の戦争は悪」よりはまだわずかにましだが、絶対的にどうしようもなくひどいことに変わりはない。当時のヨーロッパ、そして世界とはこのようなところだったのかと、嫌悪感とともにあらためて確認した。いまの感覚でむかしをはかるのはよくないことはわかってはいるが、それでも当時、個人としてトルストイ、幸徳秋水、そしてこの現代語版におなじく論説を添付された石川啄木など、そうでない人々もいたのである以上、「そんな時代だったのだから」で済ませられる話かと、思うのである。いわでものことだが、彼らの誰も「資本主義(帝国主義)者の戦争は悪だが社会主義者の戦争は正義だ」などという、こんどは逆の意味でどうしようもなくひどいことは、ひとことも言っていない。すべての戦争は罪悪だと断じている。  

(国書刊行会 2011年1月)

「汚染水海洋放出『米の要請』発言撤回 平田オリザ氏が謝罪」 を読んで

2011年05月19日 | 思考の断片
▲「msn 産経ニュース」2011.5.19 13:46。
 〈http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110519/plc11051913480019-n1.htm

 いつも思うが、発言内容の真偽以前に、何を言っても「事実ではない」(あるいは「真意ではない」とか)と撤回すればそれでなかったことにできる・する(大抵の場合は)という、えらい人たちのルールが、そもそも信じられない。

2011年05月19日 | 抜き書き
▲「新華網」2011年05月19日 09:19:20、人民网--中国共产党新闻网、王 翠「邓小平处理中日、中美关系的外交智慧」(4/4)
 〈http://news.xinhuanet.com/politics/2011-05/19/c_121433601_4.htm

 末尾、結論部分。

  面对中日之间的钓鱼岛问题,邓小平在坚持原则的前提下,采取了适当的“让步”,那就是“等”,暂时达不成一致的问题,可以采取“等”的方式,待以后条件成熟时再来解决。他说:“有的问题现在谈也谈不拢,比如钓鱼岛问题,日本叫尖阁列岛,一时解决不了,可以摆一下嘛!否则,谈十年,和平友好条约也谈不拢。”“总有一天日本政府会愿意的。实在不愿意,那也没关系,我们可以等。”“中日之间并不是没有任何问题,比如钓鱼岛问题、大陆架问题。这样的问题,现在不要牵进去,可以摆在一边,以后从容地讨论,慢慢地商量一个双方都可以接受的办法。我们这一代找不到办法,下一代、再下一代会找到办法的。”不能因为钓鱼岛问题影响整个的中日关系,这是邓小平的策略和灵活性。
  20世纪70年代,在中日、中美关系出现重大历史转折的过程中,邓小平总是从国际政治和国际战略的角度,立足于维护中华民族的根本利益,善于应对形势,当机会出现的时候,他能够当机立断,紧紧抓住机遇,把中日、中美关系推进一大步。同时,他处理问题表现出了高度的原则性和灵活性。邓小平的外交思想和外交风格得到了充分的体现,这其中也蕴涵着指导我国整个国际战略的基本原则及哲学理念。近一段时间,中日关系、中美关系出现不和谐的声音。学习邓小平处理国家之间关系的敏锐的战略思维和卓越的外交智慧,对于目前的外交工作有深刻的启示和指导意义。

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稲村賢敷 『琉球諸島における倭寇史跡の研究』

2011年05月19日 | 日本史
 司馬遼太郎氏の『街道をゆく』で教えられて、これも大学図書館で読む(館内閲覧)。
 著者もまえがきで断っているように、倭寇といっても、本土からの来訪者・移住者の謂いである。なぜなら、飛行機のない時代は海外で出るには船によるほかはないわけで、そして海外に出るのは漫然と船に乗るためではなくそれは大方は商業目的でありつまりは商人であった。そして当時の渡航商人というのは航路の安全が保障できぬ以上自衛手段として武装せざるをえなかった。くりかえすと海外に乗り出す日本人というのはほとんど倭寇と同意義だったのである。だからこの書は、つまりは琉球諸島における本土からの来航者および移住者史跡の研究ということなのだ。
 たとえば、私なりに印象深いその一例を挙げるとすれば、以前名の出た石垣島のオヤケアカハチと島内の覇権を競った仲間満慶(なかまみつけ)という勢力者の史実が関連遺跡とともに触れられるが、彼の父親は本土から来て土着した人間だったという。母親はサカエという土地の女性で、彼の名乗る“仲間”という名字は、母方のそれである。さらには仲間満慶がオヤケアカハチに殺されたあと、彼の余衆をまとめて率いたのは、“うるか屋まやまと”という人物だったそうだが、「まやまと」という名は、稲村氏の説明によれば、接頭辞「ま」+「やまと」、つまり「日本」という意味である。氏はそれ以上何も言っておられないが、この“うるか屋まやまと”も本土系の人間ではなかったか。そして、仲間満慶がもと率い、のち彼が引き継いだ集団も、本土の血や文化をひくグループではなかったかなどと、いろいろ空想が湧く。
 それにしても、司馬さんはこの本を読んで居られるはずであるのに、『街道をゆく』の文中、竹富島の祝詞で、「懐良」が「良懐」になっている理由がわからないと書いておられたのはどうしたわけだろう。そもそも南北朝時代の歴史を少しでも知っていれば、懐良親王が「日本国王良懐」として明の冊封を受けていたことは常識のはずである。それともここにはなにか微意があったのだろうか。

(吉川弘文館 1957年9月)

昇曙夢 『奄美大島と大西郷』

2011年05月19日 | 日本史
 ロシア・ソ連文学研究者にして『大奄美史』の筆者なら、学術的な研究であろうと思っていつもの大学図書館で借りたところ、ほとんど小説だった。著者もそれはわきまえていて、この手法が考えたうえで選択であったことを「序」で述べている。

 「謂はば、奄美大島の民族史乃至文化史を背景とした南洲翁の遠島物語といつたやうなもの」
 (本書4頁)

 もしかしたら先達がすでに指摘しているかも知れないが、いまひとつ、第二の目的として、西郷を救い親しくその世話をした沖永良部島(奄美群島の一)の人、土持政照の顕彰という意図もあったのではなかろうか。

 館内閲覧のみだったので、必要箇所をメモしてきたが、最後に出版月をチェックするのを忘れて帰った。

(春陽堂 1927年)