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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「Uyghur Repatriation Imminent」 を読んで

2011年05月28日 | 思考の断片
▲「RFA Home」2011-05-27, reported by Shohret Hoshur for RFA’s Uyghur service, translated by Shohret Hoshur, written in English by Joshua Lipes.
 〈http://www.rfa.org/english/news/uyghur/repatriation-05262011192244.html

 ウイグル人が独立を回復したとき、同じことを東トルキスタンの漢民族をはじめそれ以外の少数民族にしないという保証はどこにもない。彼らは亡命チベット人(とその政府)と違い、西洋式(つまり近代的)な思考訓練や政治訓練の経験が乏しいまま、国際社会に放り出され、そのまま持ち上げられてしまった。ラビア・カーディル女史は、少なくともその著書を読む限り、感情や情念ではなく自由に商売がしたいという理性的・現実的な出発点からウイグル人自決運動を推進しているという点で、まだしも信用できるが、それ以外の、たとえば東トルキスタン共和国亡命政府などは、国民主義以前の部族主義的な情念(怨念)で動いているとしか思えないところがある。漢人の中華思想同様、自分たちが天下を取ったとき、おのれの力と地位を笠に着て、何をしでかすか知れたものではないという懸念を、私はぬぐえない。そもそもウイグル人の組織的な政治宣伝は、みずからを全き正義として描き、またおのれに都合の悪い事実を隠蔽するなど、自己正当化のための嘘や誇張がままある点、彼らの敵とする中国のそれと同じである。例えば亡命ウイグル人の著名な活動家コジャムベルドゥイの『ウイグル人 古代から現代までの民族政治史』(注)は、ウイグル民族の歴史は5,000年と唱うが、実際にはまだ100年も経ってはいないのである。

 。 Кожамберды К. - Уйгуры: Этнополитическая история с древнейших времен до наших дней. Алматы: Mir, 2008.


「中国社会科学院日本研究所30周年、北京で記念式典」 を読んで

2011年05月28日 | 思考の断片
▲「CRI Online(日本語)」2011-05-18 21:42:22。
 〈http://jp1.chinabroadcast.cn/881/2011/05/18/163s175138.htm

 これまで中国社会科学院とくに日本研究所のことを「幇間の府」だの、そこの日本研究者のことを「太鼓持ち」だのとひどく批判してきたが、このごろ、日本の学界とくに中国研究界については、似たようなものではないかと思うようになった。個人としてはちゃんとした、学問の研鑽と真実の探求を旨とする研究者はもちろん少なからずいるのだが、彼らが集う社会となると、そうではない。プレーヤーもギャラリーも自分たちの世界だけでやっている、各自の名声と利益とを目指すゲームの場なのである。そしてそれは個々人の責任ではなく、彼らの属する社会の伝統もしくは原理なのだろう。個人の資質の問題ではないのである。批判しても仕方がないし、またすべきものでもないのである。価値判断すべき対象ではない。個々人だけを視るべきである。そういったことが、最近、いまさらながらに、頓悟に近い感覚で、“わかった”のである。
 中国では古来、こういう、庶民以外の大なり小なり「官」(=体制)に関わっている(という自覚のある)人間の集団としての公共心の欠如を、「官場の習気」と呼んだ。だが日本では学界は通念として「官」ではない。よって「学場の習気」とでも称するべきではないか。とすれば、そこにいる人々は、「政客」ならぬ「学客」といったところであろうか。
 さらにここまで書いてきて想いだしたが、伝統中国の場合、「官」とは、西洋でいうところの public sector に当てはめて理解することができるのではないか。そして、「官」が public sector に比較するとき極めて肥大しているのは third sector までを含んでいるからではないか。きわめて粗雑な類推だが。