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恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

モデルの効果

2007年09月21日 | インポート

 死ぬということが何であるかは、原理的にわからないことです。なぜなら、これは経験可能な現象ではないからです。いかにしても経験不可能なことを理解することはできません。それでも理解しようと言うなら、モデルを使う他ないでしょう。

 人間は普通、自分の死はこの世からあの世への「移行」として、他人の死は「別離」として、第三者の死は単なる「消滅」として理解します。これ以外に理解のモデルがないからです。だからこそ、古今東西、どの社会・民族・文化においても、人を葬る儀礼は、この「移行」と「別離」を基本パターンにしてデザインされているのです。当然ながら、第三者の死は儀礼になりません。無関係だからです。例外はないでしょう(あったら教えてください)。

 おそらく、死についての、この「移行」「別離」モデルを可能にする考え方の根底には、「自分はどこから来て、どこに行くのか」という問いが横たわっているでしょう。この逃れがたい根源的な問いの答えとして、モデルが案出されるわけです。

 ところが、世の中には、不幸にして、さらに根源的な問いを発する者がいます。彼は、どこから来るか・どこへ行くのかなどと考える余裕がありません。そもそも、「今ここに自分が生きているとは、どういうことなのか」が知りたい問いなのです。

 死にしても、どこか別の世界に行ったり、別れたりすることなどは、どうでもいいのです。「死とはなにか」「自分が死ぬとはどういうことか」を知りたいのです。

 彼らには、「移行」「別離」モデルで何を説明してもナンセンスです。問いそのものの質が違うからです。

 かくして、私は思うのですが、仏教が輪廻からの解脱を説くのは、まさに問題の立て方の違いからではないでしょうか。そして輪廻からの解脱とは、実は「輪廻」という「考え方」、精緻にして壮大にしろ、所詮は「移行」モデルに過ぎない「考え方」からの解脱を言うのではないでしょうか。

 つまり、私は、釈尊自身が、自分の問いに対する答えとして、「輪廻」モデルをナンセンスだと考えていたから、解脱を説いたのだろうと思うわけです。

 しかし、無論、問いが「来たところ・行くところ」なら、「移行」モデルは十分機能します。とすると、相手の問いの質を見極めた上で、答えを使い分け、その使い分けの全責任を負うことが、僧侶に許される「方便」ということになるでしょう。