恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

やっと始めました。

2021年10月01日 | 日記
 遅くとも還暦までには始めたかったのですが、中々着手できず、この春ようやく始めたことがあります。『正法眼蔵』全87巻及び拾遺5巻と「弁道話」の講読と現代語訳です。

『正法眼蔵』は旧草と言われる75巻と新草12巻を称するのが一般で、それに拾遺として数巻が加わります(「弁道話」は当然のように『眼蔵』として扱われることが多いですが、全くの別物)。私としては、大方が現在入手しやすい、岩波文庫版に収録されている巻の全てを対象に、講読と現代語訳をしようと思っています。

 最近出版された『眼蔵』本は多くが僧侶ではない方によるもので、しかも全巻を扱うものはありません。古いものでは、『正法眼蔵全講』と題した、岸沢惟安老師の全巻講義があります。私の企画はそれ以来です。

 私としては今回、本文・講読・現代語訳という構成で全巻解釈を目指しています。無謀と言われて当然で、命あるうちにできるかどうかというところでしょう。
 
 旧知の出版社がこの企画を引き受けてくれたのですが、驚いたのは全3冊に編集したいというのです。普通なら本文だけでそのくらいになりそうな量です。加えて講読と現代語訳をすれば、ざっと3倍です。それを全3冊となれば、一冊は辞書か事典、レンガのようになるのではないか? 心配です。

「3冊なら、読者が全部買ってくれる可能性は高まりますが、全10冊とかですとねえ・・・」
 
 そう言われると、確かにそうだなとは思うのですが、私はどうしても全巻講読と、本文・講読・現代語訳の構成だけは死守したいのです。これを3冊でやると言う編集者を信用してはいるのですが、やはり一抹の不安が。

 最初の1冊の出版はまだまだ先になりそうです。そこで、原稿の一部を紹介して、こんな感じのものにしたいというところを、お目にかけたいと思います。もし機会があったら、アドバイスいただけると有難く存じます。


正法眼蔵第二 摩訶般若波羅蜜

 この巻は、道元禅師による『般若心経』の解説である。
 表題はサンスクリット語の音写で、「摩訶」の意味は「偉大な」、「般若」は「悟り至る深い智慧」、「波羅蜜」は「彼岸に至る」、である。「彼岸」は、我々の生きる世界に対して、解脱や悟りによって到達する世界を言う。すなわち「悟りの世界に至る偉大なる智慧」が、「摩訶般若波羅蜜」の大意である。
『般若心経』は、大乗仏教における般若経典群が提示する「空」思想の核心を説くもので、日本で最も親しまれている経典の一つであり、複数の宗派で読誦されている。

《本文》
観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色・受・想・行・識なり、五枚の般若なり。照見、これ般若なり。

《講読》
『眼蔵』で特徴的なのは、引用する経典や論書などの読み方を換骨奪胎し、まるで違う意味に読み替えて、極めて独自の思想を展開して見せることである。その代表的で、かつ最初の例が、本巻冒頭の一文である。
 
冒頭の「観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」は、漢訳『般若心経』では「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」であり、読み下せば、「観自在菩薩が深き般若波羅蜜を行ずる時、五蘊は皆空なりと照見したまえり」となろう。
 
 すると意味は、「観音菩薩が悟りに至る深き智慧の修行をしている時、人間の存在を構成する五つの要素はすべて空、すなわち実体を持たないものであると、認識した」となる。「照見」は悟りの智慧によって照らし・見極めた、ということである。
 
 ところが、『眼蔵』は「観自在菩薩」の対として新たに「渾身」の語を挟んだ上で、この通常かつ常識的な読み方を一変させてしまう。その読み方を構造的に示せば、観自在菩薩=行深般若波羅蜜時=渾身=照見五蘊皆空、である。読み下せば、「観自在菩薩は行深般若波羅蜜時であり、その渾身が照見五蘊皆空である」となる。この著しく独創的な読みは、行為が存在を規定するという縁起的観点に依拠している.
 
 観自在菩薩は観世音菩薩とも言われ、大乗仏教では慈悲を象徴する菩薩である。ちなみに菩薩は、上座部では如来が成仏する前の修行段階の身を意味し、大乗仏教では、すでに成仏できる段階なのに、衆生を救済するために、敢えて成仏せずに世に留まる修行者を言う。
 
 この「観自在菩薩」と称される存在の仕方は、深遠なる般若波羅蜜を修行している限りにおいて、構成され・維持される。つまり、そのように修行することによってのみ、菩薩であり得るというわけである。

 ここで「時」の一字に注目しなければならない。存在が行為に規定されているとは、存在が時間的であることを意味する。その行為する時間を担い、現実化するのが菩薩の全身体であるが、その身体を菩薩の身体として実存させるのは、「五蘊はすべて実体ではない」と認識する行為なのである。この行為無くして、菩薩の存在も身体も無い。無いなら、別の存在であり、別の人である。
 
 この冒頭一文は、存在するものの存在の仕方を、縁起としてみる考え方、その縁起の実質を行為とするアイデアを鮮やかに提示している。だから、「五蘊」の色薀・受薀・想薀・行薀・識薀を五つの「般若」だと言い得るのだ。

 「薀」は集まりの意味であり、「色」以下は集まりの構成要素である。本来は人間の存在を構成する要素を言うが、色薀が人間の身体と同時に物質一般をも含意するので、結局五蘊で一切の存在を構成することを主張している。色薀は身体を始めとする物質であり、受薀は感受作用、想薀は表象作用、行薀は意志作用、識薀は認識作用を担保する要素である。
 
 これらは仏教的には煩悩の発生源と目されるが、縁起の観点からすれば、要素に実体は無い。この「実体は無い」というアイデアは、常に何ものかについての認識であるから、そのように認識された対象は、それ自体が「般若」の智慧として改めて現成する。「五枚の般若」とはその謂いである。
 
 だとすれば、「実体は無い」という「空」の認識が「照見」で、その「照見」こそが「般若」であることは自明であろう。つまり、般若とは、空の認識に至る智慧のことなのだ。
 
 以上に見たような、原典の文脈を縁起的観点から解体して、既成の固定した意味や概念を無効にし、改めて観無常の思想を語る独特の手法は、以下の各巻でも多用される。その結果我々が目にするものは、すでに出来上がっている思想の表現と言うより、無常であるが故に固定しがたい思想を語ろうとする、言語の運動なのである。即ち、『正法眼蔵』とは、完結しがたい思想的運動として現成するのだ。


《現代語訳》
 観自在菩薩は、深遠なる空の認識に至る智慧を修行している限りにおいて実存する。その実存を担う身体は、存在を構成する五つの要素には実体が無いと認識することにおいて、菩薩の身体として現成する。そのように認識することが、空に至る智慧なのである。