恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

しています、したいです。

2019年10月30日 | 日記
 昨日、青森県内有志の曹洞宗僧侶の方々と『正法眼蔵』の講読をしてきました。2回目です。前回がプロローグで、今回から「現成公案」の巻に取り掛かりました。お招きのある限り頑張りたいと思っています。

 始めて1年余り過ぎた、永平寺での修行僧とのワークショップ形式の月例講義は、「現成公案」の巻が終了し、次回から「摩訶般若波羅蜜」に入る予定です。

 これらとは別に、2、3年以内に一般公開の『眼蔵』講義ができないものかと思案中ですが、いまのところ予定は未定で、恐縮ながら、まだ確かなことは言える段階ではありません。

 ただ、私はこの講義をはじめとして、全巻講読することをライフワークにしたいと考えており、出版も希望していて、すでにある社に打診しています。

 この企画の狙いは、従来の『眼蔵』解釈のパターンを拙読で断ち切り、これまでとは違う読み方を提示することにあります。

 その場合の「違う」読み方とは、以下の2点についてです。

 一つは、自分自身の読み方、つまり『眼蔵』を読むために設定した観点を、予め明らかにしておくこと。この読み方・観点の事前開示を行っている『眼蔵』解釈本を、私は寡聞のせいか、いまだかって一つも知りません。

自分の読み方に無自覚である者は、本人が意識するかしないかにかかわらず、ある前提で読んでいます。すなわち、『眼蔵』の中には、「仏教の真理」や「道元禅師の思想」などがそのもの自体として埋まっていて、自分はそれをそのまま読み出せるという確信を、前提にしているのです。

 しかしながら、この前提は幻想です。読み出された「仏教の真理」「道元禅師の思想」なるものは、特定の方法で解釈された結果の「読み手なりの真理」「読み手なりの思想」にすぎません。「仏教の真理」そのものと「読み手なりの真理」の同一性を保証するいかなる根拠も基準もありません。さらに言えば、そもそも「真理そのもの」「思想そのもの」もただの虚構にすぎません。

 ならば、読み手が事前に読み方を開示する方が、『眼蔵』解釈としてより真っ当で誠実でしょう。

 私の場合は、以下の観点から『眼蔵』を読みます。これは以前出した『正法眼蔵を読む』(講談社選書メチエ)に提示した4項目です。

①常に変わらず同一で、それ自体で存在するものと定義されるもの、それは仏教では「我(アートマン)と言われるが、他に「実体」と呼ぼうと「本 質」と呼ぼうと、はたまた「神」「天」と呼ぼうと、こういうものの存在を一切認めない(設定しない=ブログ主補)。

②あるものの存在は、そのもの以外のものとの関係から生成される。これが本書における「縁起」の定義である。

③我々において、縁起を具体的に実現するのは、行為である。関係するとは行為することであり、行為とは関係することなのだ。

④「縁起」であるはずの事態を、「実体」に錯覚させるのは言語の機能である。と、同時に「自己」は言語内存在として構築される。

 以上四つの観点から行われる『眼蔵』解釈は、従来の本流・多数派の解釈パターンとは
断絶しています。

上述の「違う」読み方の二つ目は、まさにこれらの観点が行う解釈パターンにあります。

私が断ち切ろうとしているのは、「仏性」だろうが「法性」だろうが、「仏心」だろうが「真如」だろうが、「本覚」だろうが「悟り」だろうが、「絶対的な真理」と想定されるものがまずあって、それが修行なり諸縁の作用を受けると現れ出てくる、現実化してくるという、古今東西に蔓延する「本質―現象」の形而上学的二元論をパラダイムとする読み方です。

『眼蔵』においては、このパラダイムは「本証妙修」と呼ばれて、明治以後の解釈パターンの主流中の主流です。

 私がこの解釈パターンを受け容れ難いのは、無常・無我を基軸とする仏教の論理から外れると思うのと同時に、明治初期に大内青巒なる在家居士が、在家信者用の経典を編纂する枠組みとして案出した「本証妙修」を、いまなお『眼蔵』解釈に適用する必要性も妥当性も無いだろうと考えるからです。

 実は、昨今出版した『超越と実存』(新潮社)と『仏教入門』(講談社現代新書)は、いわば今後の全巻講読の基礎工事のつもりで書いたものです。

四観点を仏教史に適用したらどうなるか、四観点で仏教思想を総括したら何が言えるか、二書のテーマはそれでした。

 一応の基礎工事を終えた今、この後ご縁が続き微力が及ぶならば、四観点による方法で、できれば三つの『正法眼蔵』講読を行い、自分なりの解釈パターンを公表できればと願っています。