恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「原点」への帰り方

2018年09月30日 | 日記
「君は今までも、思想には仏教と仏教以外しかない、なんていう極端な物言いをしていたが、最近は仏教各宗派の教えにも随分思い切ったことを言ったよな」

「浄土教系の教えなら一神教の方がよほど割り切れてスッキリするし、密教ならウパニシャッドやヴェーダ―ンタの思想で事足りるというヤツか?」

「そうだよ。僭越な言い分だと思うけどね」

「まあ、そのとおり。承知の上であえて言ったんだけどね」

「あえてとは?」

「バブル崩壊後の我が国のような社会の転換期に入ると、人々の存在不安が蔓延して、思想・宗教への需要が高まるのが通例だ」

「その需要に応えて、新思想や新宗教が続々と現れたりするな。」

「同時に、従来の思想・既存の宗教は、それまでの思想や集団体制が機能不全を来して、新しい展開への模索が始まるだろう」

「つまり、改革派の台頭だな」

「そう。そのとき、よく改革派で主張されるのが『原点回帰』という文句だ」

「教祖や宗祖の教えに帰れ、みたいな」

「そう。仏教ならブッダに帰れ、とか」

「日本だと宗派意識が強いから、それぞれの宗祖の教えに帰れ、とも主張されるよな」

「いわば仏教の教主とも言えるブッダより、宗祖への帰依を強調するのは日本仏教の特徴だろうな」

「どうしてだろう?」

「ひとつは、最澄上人が、他のアジア各国の仏教よりも早い時期に、僧侶の国家管理を離脱することに成功したことだな」

「それは、奈良時代の国立戒壇から相対的に自立した大乗戒壇を設置したことか? 実際の設置は上人の没後だが」

「そうだ。自前で宗門僧侶を養成することに道を拓いた功績は大きい。これが日本での宗派仏教の勃興を可能にした大きな要因だと思う。」

「そこで、『原点回帰』にも宗派意識が働くわけか。教主をさしおいて」

「その傾向が強いと思う」

「で、その『原点回帰』がどうした? それと君の僭越な物言いとどう関係がある?」

「さっき言ったように、時代の転換期に人々の存在不安に応えて『原点回帰』しようとするなら、それなりの方法がある。ぼくがいま考えるのは、日本の伝統教団各宗派に属する僧侶、特に将来を担う若い世代には、外してはいけない三つの問いがあるということだ」

「ほう。何だ、それは?」

「まず第一に、自分自身にとって、教主ゴータマ・ブッダとはどのような存在なのか、必要な存在なのか、必要ならどう必要なのか。第二に、宗祖はどういう存在なのか、必要な存在なのか、必要ならどう必要なのか。第三に、教主の思想と宗祖の教えの関係をどう考えるのか。自分はどう整理しているのか」

「それが、君の言う『原点回帰』か?」

「まあ、そうだ。これらの問いが例の僭越な言い草の根底にある」

「となると、事は浄土教や密教だけの話ではない」

「当然だ。わかりやすいから例に出したまでだ」

「そのような回帰が必須なのだろうか」

「日本においても、寺と家(住職と檀家)の関係から、僧侶と信者(指導者と個人)の関係へと、伝統教団の教学と体制のパラダイムを転換する必要があるなら(ぼくはあると思うが)、不可欠な作業だと思うね」