恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ことは面倒

2017年09月30日 | 日記
 私は以前、倫理に関する本を書きました。無常だの無我だのを標榜する仏教は、善悪判断の絶対的な根拠を提供できない事情を論じ、自分の考え方を提起してみたのです。

 ただ、巷では、割と簡単にこの問題に結論を出すアイデアを紹介する例が目立ちます。

 例えば、仏教では修行を促進するものが善で、それを妨げるものが悪なのだ、という説です。

 これは、教団内部では矛盾なく通用しますが、教団は常にそれより大きな共同体(社会)の中にあり、しばしば倫理問題は教団と社会を跨ぎます。すると単純な話では通用しなくなるでしょう。

 仮に対抗勢力を虐殺したり政敵を恣意的に処刑するような「非道な独裁者」がいたとして、彼が仏教教団ないし修行者個人に対して、「自分に服従すれば手厚く保護するが、従わなければ弾圧する」と言い出したら(これまでもあり、これからもあり得るケース)、言われた側はどう態度を決めるのでしょう。

「保護」が「修行を促進する」以上、「独裁者に服従する」ことが仏教の立場として善行となるのでしょうか? 服従を拒否した結果、弾圧されて著しく修行が困難になったとしたら、その拒否は修行者の行いとして悪なのでしょうか?

 さらには、人が何事か行ったとき、後悔がなく喜びがあれば、その行いは善行であり、その逆ならば悪行だいう言い方がありますが、このナイーブなアイデアはそのまま通用しないと思います。なぜなら、善悪判断は人間関係における問題である以上、一方に「後悔なく喜び」がある行為が他方とって「迷惑と不快」であることがあり得るからです。

「出家」(そもそも修行を可能にする行い)が本人の「後悔なく喜び」の行為だとして、出ていかれた親族にとっては「大迷惑」な場合があるでしょう。この「大迷惑」を無視して、本人の「気分」だけで事は「善行」であると仏教は断定できるのか?(できなかったから、初期教団が出家の条件に親族の許可を加えたのだろう)

 私は、この種の教団と社会を跨ぐ善悪問題に判断根拠を示すことは、そう簡単ではないと考えます。

 少なくとも私は、「後悔もなく喜び」に満ちて修行僧になったわけではなく、他に方法がなく仕方なく出家しました(父、憮然。母、大泣き)。だからと言って、悪行と思ったこともありません。

 それもこれも、善悪問題は根本的に「世間」の問題であり、存続している教団も生きている修行者も、「社会内存在」であるという現実を免れないからです(托鉢も布施も、世間あってのもの)。

 であるにもかかわらず、修行者と教団を観念的に社会から切断し(「そういう『世間』の問題に『出家者』は関知しない」という類の言い草)、教団内部の善悪判断に自己満足するなら、それは愚昧かつ無責任と言うべきでしょう。