くじら図書館 いつかの読書日記

本の中 ふしぎな世界待っている

「国語の時間」竹西寛子

2010-02-12 05:49:49 | エッセイ・ルポルタージュ
「国語の時間」なんて書名を見たら、読むしかないではないですか。
竹西寛子著、読売新聞社刊。
国語について考えるのは、授業としての国語だけではなく、そのほかいろいろの機会をとらえて学習してきたというのは、わたしもまさにその通りだと思います。国語と日本語とを混同する訳にはいきませんが、日常の様々な場面で、ことばを考えることは多い。
わたし、今でこそ国語教師をしておりますが、中学生のころは「国語」の授業が大の苦手でした。いや、体育よりはましでしたよ(笑)。
まず漢字が書けない。テストの点数が悪い。習字が苦手。
ところが、三年生になって担当の先生が変わったら、急にテストがよくなりまして。
おそらく先生との相性なんだな、と思っていたのですが、大人になって当時のテストを見直したところ、ある事実に気づいて愕然としました。
言語事項が七割近くも出題されている!
つまり、読み取りは三割未満なのです。そりゃできないわー。

国語、という科目はわりとつかみにくい教科かもしれません。読む・書く・話す・聞く・言語等の領域を学ぶのですが、同じような内容を繰り返し繰り返し学習します。学年が上がるにつれて、ことばのレベルも上がり、学習内容が細分化していくのです。だから、ある程度パターンに慣れれば、上の学年のテストでもそこそこ取れるようになる。
そして、同じ教材を使っていても、授業者によって提示の仕方が変わってきます。同じゴールを目指しても、やることは違うこともある。
竹西さんは、会話の中で国語(ことば)について考えることが多いように感じました。
ある程度までは非常に納得して読んだのです。謙譲の美徳、相手に対して失礼のない言葉、郷里の言葉。
食べものを「うまい」と書くのは女性としてそぐわないというのも、まあ、頷けます。
でも、小学校の先生が電車の中で騒ぐ子供たちに「しーっ!」と何度も言い、「騒ぐ子、先生は大嫌い!」と注意したことに「犬や猫ではない小学生を前にして、重い気分になったのは確かです」というコメントをつけてらっしゃるのはいかがなものか、と。
すみません、わたしの勉強不足かもしれませんが、犬や猫のしつけに「しーっ」はあるのですか。表題も「しーっ!」なので、これが気になる言葉なんだと思うのですが。
日ごろの生活の積み重ねが子供の人間性を培っていくのに、公共の場でこれでは駄目だということなんでしょう。でも、そういう対応を犬猫に例えるのはどうなのか。
いや、わたしもこの様子には腑に落ちないものはありますよ。それは、「子」を怒りの対象にしていることです。よくないことはその人ではなく「行為」に対して叱る必要があるように思うから。
同様に、女子高生が公共の場(本文では電車の中)で男言葉を使うことに眉をひそめ、歌舞伎や「細雪」を例に出して異性からみた女性の美しさについて語っていますが、でも、それだけではないとわたしは思うのですよ。男言葉を使う背景に、思春期の影響があることだって多いのではないでしょうか。
竹西さんが見れば、きっとわたしも「言葉づかい」をたしなめられるでしょう。教師としてそれでいいのかと。でも、上品に話していくのは難しいなあ。言葉は親疎も表します。時には強い語調で説諭する必要もある。
結局なじめないまま、本を返却することにしました。
読めば読むほど、これが「国語の時間」なのかと疑問がわいてくる。なんというのか、主張はわかるのですが、なじめないのです。一言でいうと、「えらそー」な感じ?
日本語について頑固一徹、わたしの敬愛する高島俊男先生だったなら、同じようなことをおっしゃってもこんなふうにげんなりはしないと思うのです。本には、「何を書いているか」ではなく、「どう書いているのか」が大事なのでは。
発行は平成六年です。そんなに古くもない。
でも何となくずれがあるのは、やはり文体のせいでしょうか。言葉の背後にはその人の本質がある。この本は、品のない言葉を使う人や世間を、高みから見ている部分があるように感じました。

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