団塊の世代に連なる者として、70年安保騒動とは何だったのかといわれれば、日本のナショナリズムの爆発であると同時に、権威を保っていたアカデミズムを引きずり下ろすことであった。それは新左翼の理論家であった吉本隆明、黒田寛一、梅本克己、広松渉らの思惑をも超える異議申し立てとなった▼すでに当時においてマルクス主義は退潮を迎えていた。ソビエトや中共の現実が暴露され、マルクス主義は「現実を否定する運動である」との言い方がなされ、アナーキズム的な色合いが強かった。吉本が日本浪漫派に感化され、梅本には和辻哲郎の、黒田や広松には西田幾多郎を始めとする京都学派の影響が強いことを知ったのは、社会に出てからのことである▼中核派の「沖縄奪還」のスローガンは、革マル派などの「沖縄解放」とは違っていた。いくら表向きであっても「本土並み返還」を当時の佐藤栄作首相が口にせざるを得なかったのは、中核派の街頭での戦いがあったからだ。進歩的文化人が次々と糾弾されたのは、理論と行動に齟齬があったからだろう。「戦後民主主義の虚妄に賭ける」と言っていた東大の丸山真男の研究室が破壊されたのは、そのことを象徴している▼今の若者は保守的になっているといわれる。ナショナリズムの矛先がアメリカではなく中共に向けられ、サヨクが跳梁を極めていた大学はそのときから権威を失ってしまったのだから、それは当然の帰結なのである。
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