草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

立民と維新の献金に関する救済案を嗤う

2022年11月09日 | 思想家
 政治は信仰に干渉すべきではない。立憲民主党と日本維新の会がまとめた、悪質な商法・献金などの被害者の救済案は、あまりにも暴論である。年収の4分の1を超える額を差し出すことを「特定財産損害誘導行為」と規定するにいたっては、開いた口がふさがらない。
 そこまで政治が立ち入る必要があるのだろうか。あくまでも商法上の問題として、返還を要求することができるといった項目で対応すべきではないか。個々の人間の信仰について、世俗的なレベルで裁いてはならないのである。
 そうであれば、『福音書』(塚本虎二訳)マタイ第19章16節で「金持の青年」にイエスが語ったことは、明らかに「特定財産損害誘導行為」の法に触れてしまうのではないか。
 ひとりの人がイエスの所に来て尋ねた。永遠の命を得るにはどんな善いことをすればいいかを。イエスは神の掟を守ることばかりではなく、全財産を捨てることを命じられたのである。
「完全になりたければ、家に帰って持ち物を売って、その金を貧乏な人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい」とおっしゃったのである。
 荒井献が『イエスとその時代』で書いているように、イエスは、その一方で、民衆の病気を治し、社会に復帰する手助けをされた。人によって違った言葉を吐かれたのは確かではあるが、「金持ちの青年」に向かっては、信仰の厳しさを説かれたのである。
 イエスは「金持ちが天の国に入ることは難しい」とも述べておられる。自由に財産を処分することができるというのは、近代市民社会の原則であり、それを踏みにじることは許されないのである。
 私のように宗教に無縁な者であっても、ワイドショーに媚びる政治家には嫌悪感しか抱かない。いかなる宗教であろうとも、法と正義に反しない限り尊重しなくてはならず、私たちは、人の子としての謙虚な姿勢を失ってはならないのである。
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