♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■ルカの福音書 -65 何歳になっても謙遜さを / 大嶋重徳

2021年11月06日 | Weblog

2021.5.22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に今週は読んできました。イエス・キリストに至るまでの系図がそこには出てきて、またイエス様が、三十歳で神様のことばを語り始められたということを学んできたわけです。

 私は大学を卒業後、二十二歳で伝道者デビューをしました。キリスト者学生会という学生伝道のスタッフとなったのです。出席していた教会の説教ローテーションに入りました。すると、教会の中で長らく牧師をされている主任牧師という働きがありますが、その先輩牧師が目の前に座られたんですね。そして私の説教を目をつぶって聞きながら、「うん?」と首を傾けて、他の聖書の箇所を開かれるのが目に入ってきたわけです。「あれ? 変なこと言ったのかな?」と、汗が流れ出る経験でした。そして、いつも説教が終わった後、その先輩牧師に「今日の説教はどうでしたか?」と聞きに行きました。

 すると、幾つもの忘れられない助言をいただきました。「説教とは、聴衆と神様との交わりだと分かっていますか? あなたの説教は、言いたいことをマシンガンのようにダッダッダッダッダッと打ち続けている。聴衆の無言の応答が聞こえていますか? 説教者はその無言の応答を聞いて、再び神のことばを取り次ぐのです。」

 また、クリスチャンではない父親にも説教の録音テープを送りました。すると父から電話があって「お前の説教はノンクリスチャンの俺からすると、上から偉そうに言われている気がする。」と感想が届きました。そうやって落ち込んだり反省したりして過ごした二十代の経験がどれほど大きな経験となったでしょうか。年齢を重ねると、こういう指摘はあまりしてもらえなくなります。十代、二十代の時期は失敗の許される時期だということもできるでしょう。

 あるクリスチャンの営業マンの方から、「二十代のうちに、自分のしたミスをきちんと謝ることができるようになりなさい。今、自分のしたことを謝ることができなかったら、いつか自分の部下ができた時、その部下の失敗を、自分の責任です、とその部下のために謝ることなんかできない。あなたは今、ちゃんと謝れる二十代を過ごしなさい。」

 たくさんの人から叱ってもらって三十歳を迎えることができたことは、私にとって本当に幸せでした。実は、謝ることが出来ない牧師も多いのかもしれません。いつの間にか高慢になってしまう。

 イエス様は三十歳まで大工の仕事をされました。仕事を覚えるため、たくさんの先輩大工から教わったでしょう。謙遜に人から教わり、自分の過ちはいつでも謝ることが出来る人生へと向かっていきたいと思います。

     ( PBA制作「世の光」2021.5.22放送でのお話しより )


********

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ルカの福音書 -64 イエスも社会の苦渋の中で / 大嶋重徳

2021年11月05日 | Weblog

2021.5.21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。今週の箇所、ルカ3章では、イエス・キリストに至るまでの系図が出てきます。

 そこにはイエス様が三十歳で神のことばを語り始められたことが記されています。ここで聖書は、人々からヨセフの子と思われていたと、わざわざ記します。しかし、私たちは知っているんです。イエス様と父親ヨセフは血が繋がっていないということ、聖霊によって身籠ったマリヤを通して生まれたイエス様は、ヨセフと実際には血縁関係はなかったのです。

 しかし、イエスは人々からヨセフの子と思われていた、というのは、イエス様はヨセフの子として、きちんとその人生を生き抜かれたということです。イエス様はヨセフに対して、「あなたは、わたしの本当の父ではない。」などと言われなかったのです。

 大工の父を持ち、そこでその家族の中をきちんと生きていかれました。父親から、大工の手ほどきも受けたでしょう。時には、父ヨセフの機嫌の悪い時などは怒鳴りつけられたこともあったかもしれません。また、ヨセフとマリヤの夫婦げんかを目にして、兄弟との確執の間に立つこともあったでしょう。そして、先に夫を亡くした母の苦しさを知り、経済的な厳しさがイエス様家族にどんなに不安定さや、苦しさを与えるかということもイエス様はご存じであったのです。

 つまり世間知らずでイエス様の神のことばを語る働きは始まったのではないということです。三十年間、人間の苦渋を、人生の苦汁をなめられました。働くことのしんどさ、お金を稼ぐことのしんどさ、家族を養うことの厳しさをイエス様はご存じでした。さらに、十代、二十代の時期に、イエス様は会堂での安息日礼拝を持っておられました。イエス様は神の子ですから、神のことばは誰よりもご存じであったはずです。しかしイエス様は、会堂に通われて聖書を直接学ばれたんです。

 イエス様は、自分が神の子であるから聖書を学ぶことを軽んじられたり、軽んじるように弟子たちに語られたりはしませんでした。十字架の上のイエス様の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という祈りは詩篇22篇の祈りです。この詩篇が、あの十字架の苦しみの中にあっても口からこぼれ出るということは、みことばに親しみ続けられた二十代が、イエス様の人生の中にあったことが分かります。

 私たちもイエス様のように家族を愛し、みことばを愛し、そして日々忠実に仕えていきたいと思います。

     ( PBA制作「世の光」2021.5.21放送でのお話しより )


********

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ルカの福音書 -63 何歳からでも / 大嶋重徳

2021年11月04日 | Weblog

2021.5.20放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。

 今日の箇所ではイエス・キリストに至るまでの系図が出てきます。そこにはイエス様が三十歳で神様のことばを直接語り始められたことが記されています。

 「ああそうか、三十歳なのか。」読み飛ばすところではありますが、この時代のユダヤ人にとって三十歳は意味ある年齢でした。旧約聖書の民数記4章には、祭司は三十歳から仕事を始め、五十歳で定年を迎えました。一人前の祭司として働くことが許されたのが三十歳からだったのです。

 また、旧約聖書の偉大な王ダビデ王が王位についたのも三十歳でした。また預言者エゼキエルが預言者の務めに召されてその働きを始めたのも三十歳でした。祭司や王、預言者の働きはいずれも、自分がなりたいからなれる仕事ではありません。神様からの直接の召し、呼び出しがなければなれない仕事でした。そしていずれも神様のために奉仕をし、人々のために仕える仕事でした。神様は、これらの勤めにあたる人々を立てて、神の霊を直接注ぎ、その務めを果たさせられたのです。三十歳という年齢は、そのことをユダヤ人たちに思い起こさせる年齢だったのです。

 なぜ三十歳であったのか、幾つかの理由があったのだろうと思います。しかし感覚的に私たちも今日、分かるように思います。それは、やはり三十歳という年齢のもたらすある人生の成熟です。一人前の仕事ができるようになる年齢であるということです。つまり、十代、二十代の危うさ、もろさというものを、私たちは人生経験から知っています。十代、二十代の時期には人生が揺れ動きます。感情が揺さぶられ、誘惑に弱く、怒りやすく、また崩れやすい時です。信仰から離れていくこともあるでしょう。信仰よりも優先したくなる恋愛や結婚、仕事に心揺れる時期です。

 しかし、三十歳を越える時、一定の人生の覚悟ができると言えるかもしれません。もちろんこれは決して三十歳になるまで神様の奉仕をしてはいけない、伝道者になってはいけないという意味ではありません。むしろこの時に信仰の基礎を作り上げることが大切とされたのでしょう。

 このラジオをお聴きの若いリスナーの方も、いや年齢を重ねた方も、何歳になっても信仰を持つのに遅いことはありません。むしろ既に年を重ねられたからこそ分かることが多くあるでしょう。信仰の基礎が皆さんに形作られることを心から願います。そして、この「世の光」の番組が、その皆さんの信仰の基礎にお役に立つことができたらと願っています。

     ( PBA制作「世の光」2021.5.20放送でのお話しより )


********

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ルカの福音書 -62 あなたの信仰の系譜の中に / 大嶋重徳

2021年11月03日 | Weblog

2021.5.19放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。今週の箇所3章では、イエス・キリストに至るまでの名も無き人が多数描かれている系図が出てきます。

 それぞれの教会には、実は信徒原簿というものがあります。それは、信仰を持ったお一人お一人が信仰を持つ経緯が記されていて、そこには、どこで洗礼を受けたのか、どの牧師が洗礼を授けたのかが記されています。それを読むと、実に様々な経緯で一人ひとりが信仰に導かれたことがよくわかるのです。

 私たちの信仰の系譜には信仰を導いてくれた人がいます。さらにその人を導いてくれた他の誰かがいるのです。それぞれの人には、名も無き人が、自分の信仰を持ったその経緯にいてくださるのです。

 「世の光」のラジオで信仰を持った方もおられます。しかしその人にはこのラジオの番組の存在を教えてくれた誰かがいたはずです。あるいはその後、その人が教会に来ることを知って教会で迎えてくれた人もいるはずです。そのことを知って祈り続けてくれた人も私たちの信仰の系譜にはあるのです。それらの方々が皆さんの記憶から忘れられているかもしれません。しかし誰か名も無き人があなたの信仰に今も関わっているのです。ルカが系図に記したような具体的な誰かの名前が私たちをキリストのもとへと繋げてくれたのです。

 イエス様は家柄を選んでこの地上に来られませんでした。名も無き貧しい二人の若者の家に生まれてくださったのです。父親ヨセフは大工でした。イエス様も三十歳になるまで大工として働くことを選んで、仕えることを選んで生き抜かれたのです。信仰を持つのにふさわしい家柄などないのです。

 キリスト教会は伝道者の子どもが伝道者にならないといけないわけではありません。だれでも召されるならば、伝道者、牧師となるのです。召されるならば誰であっても牧師となり、伝道者となり得るのです。

 どの家柄が偉いなどありません。信仰が長ければ偉い、というのもありません。教会は名も無き信仰者たちが連なる信仰の繋がりの中にあります。父なる神を父として、イエス様を一番上のお兄さんとして、始めの人アダムも兄弟と呼び、信仰の父アブラハムも兄弟と呼べるのです。ここに神の家族が一人でも多く入ってきてほしいと願う教会の伝統があるのです。

     ( PBA制作「世の光」2021.5.19放送でのお話しより )


********

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ルカの福音書 -61 誰であったも神の中に / 大嶋重徳

2021年11月02日 | Weblog

2021.5.18放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。今日の箇所3章ではイエス・キリストに至るまでの系図が出てきます。

 私たちはよく考えやすいのです。どうして自分はこの家に生まれてきたんだろうかと。しかしルカがこの系図で語りたかったことは、イエス様を辿っていくときに、誰であってもイエス様によって神の子の系譜に繋がることができるのだと言いたいのです。

 これまでのルカ福音書で、イエス様が洗礼を受けられた時に天から鳴り響いた神のことば、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」という声は、私たちが洗礼を受けた時にも鳴り響くのだということを語りました。

 そして今、イエス様を信じる私たちもまた父なる神様から、「わが子よ」と神の家族に入れられたのです。神の子の家族の繋がりの中に生きることとなったのです。イエス様から新しい家族が生まれました。イエス様は結婚をされずに子どもも生まれませんでした。しかしイエス様を信じイエス様に連なる私たちは、同じように父なる神を出発点として、罪深い私たちに、キリストの家に連なる新しい家族の家系図が生まれたのです。

 今はもう私たちは自分の家系図、家に苦しめられなくてもよいのです。いろんな血筋、いろんな親、本当は縁を切ってしまいたい親戚もあるでしょう。私たちは実の所、私たちを苦しめるいろんな系図の制約を受けています。また自分から繋がる自分の子どもたちもまたそうです。「勉強がんばりなさい」と言ったところで、夫婦して数学のできない私たちの子どもはやはり数学が苦手です。「あの親父の子どもだからな」と言われると返答しようがなくなります。あるいは、「あの家の子だからな」ということばが、どれだけ人を傷つけることがあるでしょうか。

 しかし、私たちがどんな家に生まれようが、どんな血が流れていようが、私たちがその血をたどった所におられるのはイエス様であって、アダムであって、そのアダムは神の子であるという事実です。

 私たちの血筋を、神に至るのだ、とルカは語りたかったのです。何よりイエス様を信じ、イエス・キリストから流れる系譜の中を生きるようになったならば、家柄でいがみあったり、家柄で誇り、さげすむような生き方からは解き放たれていくこととなるのです。神を信じるのであれば、今日、あなたは神の家族として、あなたを縛るものから自由になるのです。

     ( PBA制作「世の光」2021.5.18放送でのお話しより )


********

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ルカの福音書-60 名も無き人の中から / 大嶋重徳

2021年11月01日 | Weblog

2021.5.17放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。

 今週の箇所3章では、イエス・キリストから遡って創世記に記されている最初の人アダムに至るまでの系図が出てきます。私たちが初めて新約聖書を読もうとしたときに最初に私たちの前に立ち塞がるのがマタイ福音書の系図でしょう。聖書を読んでみようとして、系図がいきなり出てきて、もう気が滅入ってきます。この後、面白いことが書いてある気がまったくしません。何のために系図があるのでしょうか。

 ルカ福音書には有名なダビデ王という人が出てきますし、他にも旧約聖書によく出てくるヤコブ、イサク、アブラハム、そしてノアもまた出てきます。しかしここで気づくのは、ほとんどの人は有名人ではないということです。ルカが、ルカ福音書の系図で明らかにしようとしているのは、イエス様が生まれるのにあたって多くの無名な人の織りなす系譜の中にキリストが生まれられたということです。歴史の中に忘れられているような誰も思い起こさない人の名前を辿りながら、アダムとイエス様を繋ぐことをルカは目的にして記しているのです。

 しかし人間の系図を作る時は違います。実は昔は貴族の家の出身であった、とか武士の家の出であることを誇ろうとします。江戸幕府が作った士農工商という差別構造はまさにそのような人間のプライドを利用した統治のための差別構造でした。自分のアイデンティティーの置き場を自分の血筋に置こうとする人間の弱さです。しかし、先祖のそれらを誇ったところで今の自分に何にもならないことを私たちは知っています。親がいくらお金を持っていたところでそれは親のお金です。自分の実力などではない。ルカの系図はあなたのアイデンティティーの置き場所を間違えてはならないと語るのです。

 むしろ名も無き人々の中にあって、神はその一人ひとりの人生を尊ばれておられる。王もいれば預言者もいる。一方、マタイの系図には女性も出てきますし異邦人も出てきます。さまざまな人々の歴史のただ中で、神が人となられたことを明らかにするのです。

 今日、あなたが自分のアイデンティティーを置いている所はどこでしょうか。あなたには血筋ではなく誇ることのできることがあるのです。それは神に愛され神に繋がっていることです。この系図から一週間、共に学んでいきましょう。

     ( PBA制作「世の光」2021.5.17放送でのお話しより )


********

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする