♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■神を見たイザヤ / 羽鳥頼和

2014年09月20日 | Weblog
2014/9/20放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。私は幼稚園の頃、神様を見ることができたら僕は神様を信じることができるんだけどなあ、と言ったそうです。神様を見ることができれば信じられる、と思ったのでしょう。旧約聖書のイザヤ書の6章に、神様を見た人のことが語られています。その人はイザヤという人です。神様はイザヤを神の預言者とするために幻の中でご自分の姿をイザヤに見せました。神様を見たイザヤは、
 「ああ、私はもうだめだ。まことの王である神様をこの目で見たのだから。」(イザヤ書 6章5節 参照)と言って震えあがりました。もう死んでしまう、と思ったのです。そして「自分の唇は汚れている」(イザヤ書 6章5節 参照)と言って、自分が神様のことばを伝える預言者には全くふさわしくない者であると思い知らされたのです。

 この出来事から神様を見ることについて二つのことが分ります。第一に、人が神様を見ることができるかどうかは神様次第である、ということです。人は自分の興味で神様を見ることはできないのです。第二に、もし私たちが神様を見るならばわたしたちは自分が汚れていることに気づかされ死んでしまうかもしれない、という恐ろしい思いをするだろうということです。

 さてイザヤが「自分は汚れている」と言った時、神様の身もとから御使いがイザヤの所にやってきました。御使いは祭壇から取った燃える炭火をイザヤの唇につけました。そして言いました。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ書 6章7節)
 神様はイザヤの罪を贖って、きよい者としてくださったのです。イザヤはこうして神の預言者となって神様のために働く事となりました。神様を信じて救われるためには神を見ることが大切なのではありません。自分が罪人であることを認めることが大切なのです。

 最後に、イエス様のことばを紹介します。イエス様は神様のことを「わたしの父」と呼んでいました。そしてこう言われたのです。

 「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14章9節)

 イエス様を見るということは神様を見ることです。そしてイエス様を信じることは神様を信じることなのです。

 明日は日曜日です。神であり救い主であるイエス様を知るために、お近くのキリスト教会にいらしてください。


 (PBA制作「世の光」 2014.9.20放送でのお話より )
 
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