♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■神のわざが現れるため 4 / 大嶋重徳

2014年09月23日 | Weblog
2014/9/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 ヨハネの福音書9章には、生まれつき目の見えない青年にイエス様が泥を塗り、シロアムの池でその泥を洗うと目が見えるようになった、という出来事が記されています。ああ良かったねえとなりますが、しかし聖書はここから人間の現実に踏み込んできます。

 8節以降、目が見えるようになった彼は地元に帰っていきます。すると近所の人たちが「ええーっ?! 目が見えなかったあの息子か。」と、好奇心で集まってきました。彼は「イエスという人が泥を塗ってシロアムの池で洗うと見えるようになりました」と自分に起こったことを話したのです。すると群集はハッとして急に彼をパリサイ人・律法学者の所に連れて行きます。

 どうしてなのかは説明が必要ですが、この当時パリサイ人・律法学者という人たちは、律法を守って良い行ないをしているから自分たちは神様にこれだけ取得されている、と考えてました。律法主義と因果応報というのは良く似た裏表の関係です。しかしイエス様は、行いによって神様の祝福が決まるのでない、ただただ信仰によって神様の恵みだけなのだ、と言うわけです。このイエス様の主張は律法学者やパリサイ人たちからすると、「なあんや、イエスという男は俺らのこと否定してんのか。あいつは危険人物やなあ。」と周りに伝えていましたから、群衆たちはピンと来て、とりあえずパリサイ人の先生んとこ行こう、となったのです。

 信仰を持つと言うことも、ともすると律法主義的な罠に陥ることがあります。自分はこれだけの良い行いをしているから神様は祝福してくれている、と自分の宗教的な行いの報いを欲しくなっていくのです。あるいは、自分の信仰に自信が無いときは良い行いによって自分の信仰を正当化しようとしてしまうわけです。そこから生まれて来るのは良い行いをしようとしない人への批判です。また自分の良い行いを認めてくれない人をさばいてしまうことになります。

 しかし神様を信じると言うことは本来そういうことではありません。人を裁くようになるのではなく、自分を誇るようになるのでもないのです。神様が自分にしてくださった恵みをただただ感謝して謙遜に生きることへと繋がっていくんです。このような生き方を皆さんもぜひ始めてみてはいかがでしょうか。

  ( PBA制作「世の光」2014.9.23放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


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