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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■言葉は人となって

2004年12月20日 | Weblog
  世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。
先週に引き続いてクリスマス・スペシャルをお送りしています。

 あのー、私はこうしてことばでお話しをさせていただいてますねえ。で、私たちは話しことばとか書きことばとかということばをもって自分の気持ちを相手に伝達するという事ですね。で、広い意味では、例えば絵なんかも、これはその人の持っているものを表現することばだというふうにも言えると思いますし、音楽なんかも、その人の内にある音楽性といいましょうか、それを表現しているという意味では、ことばというふうにもできると思いますね。つまり、私たちの内にあるもの、私たちの思っていることを相手に伝える、表現する、それを広い意味でことばというふうに言うことができると思う訳ですねえ。
 
 で、聖書の中に、こういうのがありまして、「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」という句があるんですね。これは何を言っているかというと、イエス・キリストの事を言っているんですね。

 で、クリスマスというのは、イエス様が誕生した、というふうにしてお祝いをする訳なんですけれども、イエス・キリストの誕生というのは、実は神様のお考え、神様の御意志、神様の御計画というものが私たちによーく伝わるようにキリストというお方が肉体をとって、この地上にお生まれになった、それはまさに、神のことばが私たちに分かりやすい形で人の形をとってこの地上においでになったということを実は意味していることなんですね。

 ですから、イエス・キリストの語られたことや、イエス・キリストがなさったこと、そうした一つ一つを通して、ああ神様というお方はこういうお考えをもっていらっしゃるんだ、神様っていう方はこういう方なんだということが良く分るということな訳ですね。

 で、神様は愛だ、というふうに言われていても、それは単なる抽象的な概念的な事ではなくって、イエス・キリストは私たちの罪のためにあの十字架の上でいのちを投げ出してくださった。友のためにいのちを捨てるほど、これほど大きな愛はない、というふうに言われたことをキリストは実際に自分の身をもって、行ってくださった。そのイエス・キリストの十字架を見ることによって、ああ神は本当に私たちを愛していらっしゃるんだという事がはっきり分る。

 そういう意味でイエス・キリストの誕生というのは、神様という方を本当に知ることができる手段として形をとっておいでくださった日なんだという事ですねえ。

(PBA制作「世の光」12/20放送でのお話しより )

*****

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。また、近くの教会も紹介してくれますので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■その名はイエス

2004年12月18日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。

 今日の世の光は、続いてクリスマス・スペシャル「その名はイエス」というテーマでお話しをします。

 処女(おとめ)マリヤのいいなずけヨセフに、主の使いが現れて言いました。

「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 クリスマスの不思議の一つは、処女(おとめ)マリヤが、男によってではなく神の聖霊によって男の子が生まれるという不思議、処女降誕という不思議ですね。イエスは神にして人間、イエス・キリストとして処女(おとめ)マリヤから生まれました。

 第二にイエスという名がつけられた不思議です。イエスという名は、神があらかじめ決められた名前で、「救い」とか、「救い主」とかいう意味なんですね。イエスが誕生して八日目、ユダヤ人の決まりによって割礼を行う日になりました。人々はこの赤ちゃんにイエスという名をつけました。不思議です。神が名をつけられた通りの名、イエスです。イエス・キリストと呼ばれるこのお方の名前、イエスは「救い」とか「救い主」という意味だと申し上げましたが、キリストとは、ヘブル語でメシヤ、ギリシヤ語でキリスト、「神に油注がれた者」という意味です。イエス・キリストは神に任命された神の子救い主として生まれました。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。イエス・キリストご自身のことばで、この救いのわざがどんなものかを知って見ましょう。

 聖書のことば、イエス・キリストのことば。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

 その名はイエス、何という尊い呼び名でしょうか。その名はイエス、何とありがたい呼び方でありましょうか。

 それでは、また聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」12/18 放送でのお話しより )

*****

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。クリスマスのこの時期、日曜日に教会に行ってみるというのもいいんじゃないかなあ。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。



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■インマヌエルと呼ばれる

2004年12月17日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみやすお)です。

 あとちょうど一週間経ちますとクリスマスイブです。今日はこれにちなんで、クリスマスに誕生したイエス・キリストのもう一つの名前についてお話しします。

 クリスマスの出来事を書いている新約聖書の最初の書、マタイの福音書1章23節に、その誕生について、こんなふうに書いているんです。
 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)、というんです。

 イエス・キリストのもう一つの名前、それは、インマヌエルです。その意味は、神様が私たちと共におられる、という意味なんですねえ。

 考えてみますと、大変興味深いことです。普通は人間の方から神様を求めて、拝む場所を作ったり、お願いするために立派な建物や祭壇を作ります。でもそこに神がいる保証はない訳ですけれども、求めていく神様の方から私たちの所に来てくださった、それがキリスト、インマヌエルだ、って言うんです。

 ですからキリストはその33年の生涯、行く先々で「神様があなたがたと共におられるのです!それがわたしです。」と語りました。そして教えただけでなく、実際に悪魔を退け、悪しき霊につかれた人をすべて解放し、すべての病人を癒しました。そして罪を赦し、人生の意味を目的を示しました。ですからこのキリストを知る時に、信じていく時に、その人と共に神がいてくださる、という訳です。

 キリストの弟子パウロは、こんな風にその手紙、ローマ人への手紙の手紙の8章37節に書いています。
 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

 私たちもイエス・キリストを知り、信じていくということは、神が共にいてくださる! ですから、インマヌエル、神が共にいてくださる生活、体験をする事ができる、パウロののようにどんな中にあっても圧倒的な勝利者となる事ができる、いやそうさせてくださる神様が共にいてくださる、それがインマヌエル、イエス・キリストなのだと、いうのです。

 この神様が心の中に、生活の中に、仕事の中に、共にいてくださるという経験。このためにキリストがおいでくださったのです。

 ( PBA制作「世の光」12/17 放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。クリスマスのこの時期、日曜日に教会に行ってみるというのもいいんじゃないかなあ。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■アダムからキリストへ

2004年12月16日 | Weblog
 お元気でいらっしゃいますか? 世の光の榊原 寛(ひろし)です。

 クリスマスがあと一週間後ですよね。さて今日はですね、イエス・キリストの事について、そのお生まれになった様子のことについて御紹介申し上げてみたいと思うんですが、実は、新約聖書の一番最初から四番目に至るまでの四つの書簡がありますが、これは福音書、幸福の福、それから音、「ふくおん」とよく読まれますけれども「ふくいん」書からなっています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書ですね。

 で、その中にですね、ことにそのマタイによる福音書、一番最初にはですね、一頁を開きますと、もうカタカナばっかりが出てくる訳ですね。それからルカによる福音書の所を見ますと、またここにもカタカナばっかりが出てくるんです。これは実はですね、イエス・キリストの系図と申し上げていいかなあと思うんです。

 で、ルカによる福音書といいますのはですね、このイエス・キリストの系図はですね、イエスが生まれたよ、その父はヨセフだよ、って言いましてですね、先祖代々にまで遡りながら、遂に人類の最も最初に神様から造られたというアダムにまで遡っているんですね。これは実はね、イエス・キリストというお方が人の子としてこの世に遣わされたお方なんですよ、私たちと同じ姿で、同じ涙も苦しみも悲しみも病いも引き受けた同じ姿としてキリストはこの世においでくださった、それは私たちの救い主となるためだ、このことを言おうとしている訳ですね。

 ところがマタイによる福音書のこのカタカナの羅列、いわゆる系図はですね、四千年前のアブラハムという人に遡るんです。これは実は王様の家系を辿りながらョセフに至り、キリストが生まれたよ、っていう事なんですよね。そしてキリストこそまことの王、まことの救い主、まことのメシヤなんだ、そういう事を言おうとしている訳です。そんなことで、マタイ、そしてルカによる福音書、読んでいただく事ができたらすばらしいなあと思っています。

 そこで、マタイによる福音書では、王であり、救い主であり、メシヤであるイエス・キリストという、その赤ちゃんがお生まれになったという事を知ってですね、遠くバビロンの国から、今のイラクですねえ、そこから東の博士たちが礼拝にやってきた、そこを聖書はこう言って書いてあります。

 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

 クリスマス、博士たちのまことの礼拝、つまり、あなたそして私の、神様に捧げるまことの礼拝がほんとの意味でのクリスマスだっていうことを知っていただきたいのです。

 (PBA制作「世の光」12/16放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。また、近くの教会も紹介してくれますので、気軽に問い合わせるといいでしょう。この時期はクリスマスの時期でもあり、教会を覗くいいチャンスですよ。お友だちと一緒にというのもいいですよね。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。




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■預言された救い主

2004年12月15日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 今日の世の光は、今年のクリスマス・スペシャル「まず預言された救い主」です。

 神の子イエス・キリストが人類の救い主として誕生されるという事実は、実は紀元前700年も前から聖書に預言されておりました。不思議な事です。その内に最も際立った預言は、旧約聖書イザヤ書9章6節、7節にあることばです。

 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。


 第一に、救い主イエス・キリストは、その人格もことばも生活も他に比べることがないほどワンダフル、不思議な助言者、力ある神、永遠の父なるお方、平和の君です。イエス・キリストは私たちの救いですが、神は実にその独り子をお与えになったほどに世を愛された、と聖書にあるように、愛なる神がこの世に与えられた救い主です。人にして神。人ですから私たちの悩み苦しみすべてを知っておられる。


 私の恩師の由木 康先生は、「すべてのものを与えし末、死のほか何も報いられで、十字架の上に上げられつつ敵を赦ししこの人を見よ」と、その有名な讃美歌に歌われました。子なるイエスはその愛によっていのちを捨てて私たちの身代わりになって救ってくださいます。人にして神、神様ですから三日目によみがえって今は天にあり、私たちを救い、守り、愛し、導いてくださいます。このイエス・キリストこそ預言された救い主なのです。


 聖書のことば。「 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」旧約聖書イザヤ書
9章6節のことばです。


ではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」12/15放送でのお話しより )


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■貧しくなられたキリスト

2004年12月14日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(ひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 クリスマス。まあなんとなくワクワクしますよね。街には華やかなイルミネーションが輝き、素敵な音楽が鳴り響いています。でも、2000年前にこられたイエス様には、そんなきらびやかな装いも、はなやかさも華やかさもありませんでした。いわゆる、この世の名声とはまったく無縁の方としてお生まれになったんです。

 イエス様は家畜小屋で生ました。王の王として来てくださった方が家畜小屋ですよ。一体、どこに名声があるでしょう。

 イエス様のお母さんはマリヤです。けれども、未婚のマリヤさんが突然妊娠したのです。マリヤさんは、聖霊によって身ごもりましたというのですけれども、それを受け入れるのはどんなに大変だった事でしょう。

 そしてイエス様の名前、実はこの名前もありふれた名前でした。イエスとはギリシャ語的な発音で、ヘブル語つまりユダヤ人の発音ではヨシュアと言います。旧約聖書にもヨシュア記というのがありますよね。この名前は、ごくありふれた名前なんです。ですからイエスという名前の人は、あそこにもいる、ここにもいるという名前だったんですね。

 そして最初にイエス様の誕生が告げられたのは一体どこだったでしょう。天使たちは大合唱で救い主の誕生を告げ知らせました。何万人も収容できる大スタジアムで告げ知らせたでしょうか。いいえ、野宿で夜番をしながら羊を見守っていた数人の羊飼いたちが、その天使の大合唱を聞いたんです。当時羊飼いというのは卑しい身分とされていました。そんな人たちに、救い主がお生まれになりました、と知らせても、一体誰がまじめに取り合ってくれるでしょう。

 旧約聖書に、イザヤという預言者がいます。この預言者はイエス・キリストの事をこう預言しました。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」こう語っています。

 イエス様には、人に劣等感や嫉妬心や、近づきがたさを感じさせる外見は何一つなかったというんです。最も庶民的な方なんですよ。聖書には、イエス様は神様のあり方を捨てる事ができないとは考えないで自分を無にして来てくださったと記しています。王の王であり、救い主として来てくださった方なのに、貧しく、一切の名声や華やかさとは無縁の形で来てくださいました。それは、イエス様こそ私たちにとって最も近づきやすい方として来てくださったという事です。

 ですから、気軽にこのクリスマス、イエス様のことを知っていきませんか?

 (PBA制作「世の光」12/14放送でのお話しより )

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■時満ちるに及んで

2004年12月13日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。
今日から二週間に渡ってクリスマス特別番組でお送りします。
 えー、クリスマスは言うまでもなくキリストの誕生な訳ですけれども、しかし考えてみますとですね、キリストのような生まれ方をした人というのは他にないと思うんですねえ。
 もちろんその生まれ方もそうなんですけれども、生まれる前から予告されて、つまり、どういう生まれ方をするか、どういう生き方をするか、そしてどういう死に方をするか、というような事まで予告されてこの地上に生を受けた人というのは、キリスト以外にはないと思うのですねえ。
 で、キリストの誕生というのはまったく突発的な出来事ではなくって、前々から神様から深ーい計画をもってですね、その計画通りに生まれたという事なんですね。
 で、人間が罪を犯した時、つまりアダムとエバが失敗をしてしまった時から神様はその解決をしようとして、ちゃんと予告をしておられたんですねえ。で、イスラエルの歴史全体を見ましても、ある旧約聖書の全体に書かれてあります事は、その歴史を通じて神がどういうふうに人間をお救いになるかという事の、あれは計画書、プランだというふうにも見ることができる訳なんですね。
 そして預言者を次々と起こして、その預言者を通して神様が人間をどんなふうにお救いになるか、そしてその救い主をどういうふうにお遣わしになるか、その救い主はどういうことをしてくれるかというようなことがですね、ずうっとこう預言、または予告されて、それが何百年、時には何千年も経って、そして神様が、まあ頃合を見計らってと言いましょうか、この地上に御子をお遣わしになった。それがガラテヤ書の4章に、「時が満ちるに及んで神は御子をお遣わしになった」と書いてあるんですね。その神様の御子をお遣わしになったタイミングというのは、それまでは人間で何とかできると思っていろいろやってきた訳ですけれども、ぎりぎり、やっぱり人間ではどうすることもできないというその限界状況のその時にですね、神は御子をお遣わしになった。私たちがイエス・キリストを信じようと気持ちの時も、自分の罪深さとか、自分の弱さとかいうものを知って、自分の限界を知った時に、救いが
本当に自分にとって必要だなと感じる時に、キリストを心の中に受け入れるというようにですね、その時というのも、実に神様の時があったのだという事を現しているんですね、これは。
(PBA制作「世の光」12/13放送でのお話しより )
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■生まれ変わる産声

2004年12月11日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。
 今日の世の光は、皆様からお寄せいただく「心に残る聖書の言葉」の御紹介です。
ブラジル・サンパウロ市にお住まいで、96歳の今も現役の牧師でいらっしゃる山崎長文先生からは、新約聖書ヨハネの福音書3章16節が送られてまいりました。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 1929年7月、寒い冬の夜のことでした。リンス市にある大工さんの家で、私は湯浅じゅうろう先生に導かれるままに、生まれて初めて、しかもきわめて短い祈りを、それこそ汗だくになってしたのです。それは、罪の悔い改めと、イエス・キリストを救い主と信じる告白で、新生命に生まれ変わる産声であったのです。その短い祈りを終わって立ち上がった時に、私の心はまったく変えられ、生きる意欲がむくむくと沸き上がってきたのです。父親の止めるのも手を振り切って夢のような幻を見て移住した私は、2年ほどするうちにまったく行き詰まってしまい、幻滅の悲哀を痛感するようになりました。殊に、過って左目の瞳を突き破るというケガをしてから落伍者、敗残者だという挫折感に打ちのめされていたのです。しかし、あの夜の短い祈りをささげた時のこと、私の人生感はまったく変わってしまいました。もしあの時、私が決断しなかったなら、恐らく私は50歳台で死んでいただろうと、考えます。ステッキ1本でひょう然として海を渡ってきた私が、ひ孫が5人も出来、40名の大きな、神を信ずる者たちの大家族の族長となって、96歳で今も元気で、神の福音のために生きさせていただいております。

山崎長文先生からの心に残る聖書のことば。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書3章16節のことばです。


 それでは、また聞いてください。
 ( PBA制作「世の光」12/11 放送でのお話しより )
*****
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■弱さを通して知る希望

2004年12月10日 | Weblog
 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみやすお)です。
 西村隆さんのお話しをうかがって感動しました。西村さんは、40歳でALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病にかかり、不自由な体になってしまわれました。でも、『神様がくれた弱さと微笑み』という本を書いておられるんですねえ。
 ま、普通、ハンディキャップや弱さというのは、辛いもの、不幸な事のように連想しがちです。しかし西村さんは不治の病にかかり、その弱さと共に生きる事に意味があるんだ、そして得るものがあるんだ、って言うんです。それは、弱さを通してこそ本当の幸せ、いのちの大切さ、生きる喜び、家族との心の支え合い、そういうものを体験できたからだ、って言うんです。希望がある、って言うのです。じゃあその希望の種は何ですかと聞かれて、一言、「信仰です。」という答えでした。今までも、そして今も、神に守られているっていう事をリアルに現実的に体験し感じているので、将来にも不安はない、という信仰ですね。考えさせられます。
 健康で忙しくしていますと、こういう大切な事を味わわずに過ごしてしまいがちではないでしょうか。人生において本当に大切なものは、変わらない幸せ、生きる意味、その喜び、家族愛、心からの交わり、そういうものはむしろ弱さを感じる所で体験できる、っていうんです。
 新約聖書コリント人への第一の手紙13章13節に、こう書かれています。
   こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
 今、弱さや困難の中にある方は、このいつまでも続く心の豊かさ確かさの入口に立っておられるのです。それはまた、どんな元気な人も誠実に自分を顧みます時、自分の限界、弱さを自覚するのではないでしょうか。
 神様は私たちすべてに向かって、ありのままでこのキリストへの信仰、神よりの希望、神の愛の中に入りなさい、その中に生きなさい、と招いておられるのです。信仰とは、「信じて仰ぐ」と書きます。イエス・キリストを信じ、仰ぐことです。そこに、神と共に生きる、信仰・希望・愛に生きる生活が始まるのです。
 ( PBA制作「世の光」12/10 放送でのお話しより )
*****
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コメント (3)
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驚くべきイエス

2004年12月10日 | Weblog
どこから見ても、イエスは驚異的なひとだった。ベツレヘムで生まれ、ナザレで育ち、エルサレムの郊外で処刑されたイエスは、当時パレスチナとよばれた、四角い小国から離れたことがなかった。イエスは書き物や日記を残さなかったし、誰がするにせよ、彼について知られているすべてを口にし実行しようとすれば、1、2週間もあればことがたりたろう。しかも、イエスのことばと行ないは、あれからずっと、偉人たちの心を引きつけ、偉大な行動を鼓舞し、人々の望みをかきたててきた。今日、世界の人口の1/3は、キリスト信仰を告白している一それは、他のどんな大宗教の信徒数にもひけをとらない。そして西欧では、イエスが生まれたとされている日から、暦が始まっている。
かつて出征したどんな陸軍も、海を渡ったどんな海軍も、開かれたどんな議会も、支配したどんな国王も、そしてこれらずぺてを合わせたものも、この地に住む人人の生き方に、このイエスほどの影響をあたえることができなかったといって、決して過言ではないだろう。
われわれとおなじ人間イエスといっしょにほこりっぽい道を歩き、ガリラヤの町々をめぐり歩いたときに、イエスの最初の弟子たちは彼のなかに、何を見ただろうか?
彼らは、自分たちとおなじ人間を見た。食べ、眠り、汗を流し、涙するのを見た。彼の足は汚れ、筋肉は痛んだ。それは不平凡々たる生活であった。
しかし、他の点でイエスは途方もない存在であった。いわゆる「信心深い」ところはなかったといえようが、彼は活力にあふれた魅力的な祈りの生活を送っていた。イエスは神のことを「父」とよび、弟子たちにもそうよびなさいといった。
彼が語った多くの話は、爆弾のような効果を発揮した。話は聞く人の心で炸裂し、多くの偏見を吹き飛ばし、光をさんさんと心のなかにそそぎこんだ。特別な教育を受けていない普通の人も、イエスの教えを聞くと、心を刺された。
平和奇跡も見のがせない。静かに、ごくごく控え目なやり方で、イエスは多くの障害者たちを助け、癒した。盲人たち、耳の聞こえない人、そして、おしの人一さらに、人にいみ嫌われ、触れられることのない、らい病患者さえ一も、健康と、力と、自立心を、とり戻した。回数こそ少なかったが、イエスは、死人をすらよみがえらせた。
それでいて、イエスは一人をただただ感嘆させずにおかないやり方で」--自分なりの生き方をされた。彼は滅多なことで人が手にしえない、心の平和を、いつももっていた。そして、それを人々と分かち合おうとされた。それは父なる神へのまったき信頼にもとづく平和である。朝早く、また夜が更けてからも、暑い昼日中にも、イエスは祈った。その結果、彼はどんな難問や妨害にぶつかっても、自分が誰で、何をしなければならないかを、見失うことがなかった。

イエスは人を困惑させずにおかない一面も、もっていた。そのひとつは彼が、社会のひんしゅくをかう屑のような人々の仲間だったことである。イエスにとっては、名高いいかさま師や盗っ人と夕食をとることほど、たのしいことはなかった。一度だけど彼は、売春婦がやってきてみ足にふれ、なでようとするのを、顔を赤らめもせず黙認した。イエスはずうずうしいくらい無礼になることもあった。彼は有名人の信心深そうなふるまいや、地位の乱用を、公然と非難した。イエスはこの悪臭は何だ、と人に、面と向かっていった。普通の人が、イエスのことばに喜んで耳をかたむけたのは、少しも不思議でなかった。

『信仰を見つける』すぐ書房,1988より引用

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