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表現の自由が認められる境界についての判例・学説の考察

2012-08-24 09:49:08 | 読書ノート
市川正人『表現の自由の法理』日本評論社, 2003.

  表現規制に対する日米それぞれの判例・学説を検証することによって、規制が正当化できる根拠、あるいは正当/不当の境界を探る学術書である。特に「表現内容の規制・内容中立的規制二分論」に大きな関心を割いている。

 「表現内容の規制・内容中立的規制二分論」とは、表現内容を理由にした規制は違憲だとみなす一方、表現される時と場所・表現の方法を理由に規制することは合憲だとみなす論理である。表現される内容の適否でもってその表現を禁止することは法的に許されない。しかし、デモや集会などで開催日時が不適切である場合──夜中であったり、集会場の休館日に開催を試みたり──や、表現する場所が不適当である場合──子どもの目につくような場所でポルノグラフィを掲示するなど──、あるいは方法に問題がある──電柱への張り紙のように街の美観を損ねる方法を使ったりするような場合、これらに対して表現活動を一律禁止することは認められるという。内容に対して中立的ならば、表現する時と場、方法を理由に規制しても許されるというわけである。実際に、この論理は裁判で使用されている。

  著者の考察によれば、中立的規制は十分説得力のあるものになっていないとのことである。第一に、表現の自由のそもそもの目的が多くの表現活動を促して思想の選択肢を増やすことにあるのに、内容中立的規制のような一律規制は表現活動の量を減らしてしまい、目的と矛盾すると指摘している。第二に、資金力の無い表現者が表現内容にインパクトを持たせようとするとき、時・場所・方法などの点で敢えて常識を逸脱しようとせざるえないことがあるが、中立的規制が適用されるならば結果としてそうした「弱い」表現者の活動を禁じてしまうことになると指摘している。第三に、これは日本の場合だけだが、公共の福祉とのバランスで表現活動の規制が認められることが多いが、その比較考量方法が厳密でなく正当性を欠くと指摘している。

  二分論に対する問題的の指摘は理解できたが、解決の方向性についてはどうだろうか。著者は、中立的規制も不合理だとし、表現の自由を優先した一元的な法的判断を求める立場である。けれども、個人的には次のように考える。表現の自由は社会にとっての究極目標ではなく、個人の幸福のための手段であるだろう。ならば、個人の幸福と表現の自由が対立する場合、前者を優先する法的判断を採っても良いはずである。この点で、中立的規制の存在は時と場をわきまえない表現活動を迷惑に感じる人々の救いになるだろう、と。もちろん、個人の幸福と表現の自由がもたらすメリットを比較考量することや、その法的判断の波及効果を推定することの難しさはあるのだが。

  とはいえ、判例や学説を整理してくれているありがたい書籍であり、大変ためになる。パブリック・フォーラム論についても良くわかった。
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