29Lib 分館

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うっすらと残るかつて障害者施設に通った記憶

2016-07-27 23:22:42 | チラシの裏
  相模原の障害者施設での大量殺傷事件のニュースを耳にして、亡くなった叔母のことを思い出した。以下、件の事件とは何の関係もない、個人的な思い出話である。オチもない。

  母方の叔母は小学生低学年のころに高熱をこじらせて小児マヒを患ったらしく、それから30歳前後で亡くなるまでずっと施設に入所していた。母は三姉妹の長女だったのだが、妹のこの窮状に衝撃をうけて看護師になった(数年前までフルタイムで働いていたが、定年後はパートタイム看護師をしている)。

  僕が4-6歳ぐらいの頃だから、1970年代後半の話で、記憶もかなり曖昧だ。祖母も亡くなってしまっているので、確認できないことも多い。叔母が入っていたのは病院ではなく、障害者施設だったはずだ。医者らしき人がいなかったし、治療用の設備も無かったからだ。そこに祖母に連れられて、毎月か隔月かの頻度で訪ねていった記憶がある。愛知県大府市に施設があったから、祖母から「おおぶにゆく」と言われたときは叔母を見舞いに行くことだった。駅からバスを使った記憶があるだけで、施設名も住所も覚えていない。

  叔母は多少身体を動かせたけれども、ほとんど寝たきりの状態で、うまく言葉も話せなかった。他の入所者はおそらく知的障害者だったと思う。幼児だった当時の僕より体が大きい人たちだったが、施設の内装は通っていた保育所と大差がないような可愛らしさだったような気がする(動物やフルーツの絵が飾られていたような…)。祖母と僕が施設を訪れると、叔母だけでなく他の入所者ものぞきに来て喜ばしそうにしていたのを覚えている。あまり訪ねてくる人もいなかったのだろう。

  入所者とどの程度やりとりをしたのかははっきり覚えていないのだが、とにかくうまく遊べた記憶がない。おもちゃがたくさんあったはずで、それを使って幼児ながらに入所者と遊ぼうと試みたはすなのだが、なかなかうまくコミュニケーションが取れなかったのだと推測する。結局退屈してしまって施設を出て、周囲をぶらぶらしていたりした。施設の隣にあった、屋内に大量の足踏みミシンが埃をかぶっていた廃工場に潜入した記憶は強烈に残っている。たぶんわくわくしていたんだろうな。

  この退屈という印象から、小学生になってからは祖母の大府行きについていかなくなってしまった。そして数年の間叔母とはまったく会わないまま、僕が小学六年生の頃に彼女は亡くなってしまった。残念ながら僕の障害者施設訪問はあまりに幼すぎたために啓発的な経験にはならなかった。もう少し年がいっていれば違った振舞いになったと思う。その後の墓参りの回数のほうが、当時の施設の訪問回数を超えるようになったしまった、たぶん。
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