沖国大のほうが移転するべき





「かみつくⅡ 」の目次
「かみつく」の内容紹介
「沖縄に内なる民主主義はあるか」の内容紹介




「かみつくⅡ」は、
狼魔人日記でネット販売しています。
申し込みはメールでできます。

ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp

みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板


沖国大のほうが移転するべき



 2004年8月14日の米軍ヘリ沖国大墜落事故から9年の集会が沖国大で13日に開かれた。
 大城保学長は隣接する米軍普天間飛行場の即時閉鎖と返還を日米両政府求める声明を発表した。14日以降、首相や駐日大使らに対し、同飛行場を使用する航空機の即時飛行中止とオスプレイ追加配備の中止を要求する文書を起きるという。

大城学長は
「起きてはならない事故は必ず起こる。それに、どう立ち向かうのかが大事だと思う」
「普天間飛行場があり、オスプレイが宜野湾市上空を飛行し続ける以上、事故は起こる」
「大学の平穏・安寧を脅かす普天間飛行場の強化、ましてや固定化は、大学にとって認められるものではない」

と発言している。

 大城氏は沖縄国際大学の学長である。学長であるならば沖国大の歴史を知っているはずである。学長が自分の大学の歴史を知らないなんてあり得ない。

 沖縄国際大学(おきなわこくさいだいがく、英語: Okinawa International University)は、沖縄県宜野湾市宜野湾二丁目6番1号に本部を置く日本の私立大学である。1972年に設置された。大学の略称は沖国大(おきこくだい)もしくは沖国(おきこく)。
略歴
1959年、沖縄県のアメリカ合衆国による統治下時代に、財団法人コザ学園が琉球国際短期大学を設置した。
1962年、同財団法人は琉球国際短期大学を内包する形で国際大学を設置、琉球政府により認可された。
1972年、沖縄返還がなされると、沖縄県に設置されていた大学に関しても日本国内の大学設置基準と
あわせる必要が生じた。そのため、沖縄の復帰に伴う特別措置によって国庫補助金が交付さ
れさらに日本私学振興財団から特別に貸与金が交付された。これらを原資として国際大学を母
体に沖縄大学の一部を統合して設立したのが現在の沖縄国際大学である。
                             ウィキペティア

 沖縄国際大学は1972年に現在の場所に創設した。1972年はベトナム戦争の最中であった。

1970年:リチャード・ニクソン大統領就任(1月)、南ベトナム軍とアメリカ軍がカンボジアに侵攻(4月)、カンボジア内戦勃発

1971年:南ベトナム軍とアメリカ軍がラオスに侵攻(2月)、ニューヨーク・タイムズ紙に「ペンタゴン・ペーパーズ」連載    開始、南ベトナム大統領選挙(10月)

1972年:北ベトナムの戦闘機がアメリカ艦艇を初攻撃(4月)、アメリカ軍無制限北爆再開・停止(12月)

1973年:パリ協定締結(1月)、アメリカ軍がベトナムから撤兵完了(3月)

 沖国大を創設した1972年当時はベトナム戦争の最中であり、沖縄での戦闘訓練は激しく普天間飛行場の危険性は今より数十倍も高かった。沖国大か開学して間もない頃、ヘリコプターから沖国際大にタンクが落下する事故が起こった。大城学長は「起きてはならない事故は必ず起こる」ともっともらしく発言しているか、開学して間もないときに「起きてはならない事故」はすでに起きたのだ。それでも沖国大は別の場所に移転する考えは全然なく、どんどん校舎を新築していった。

 ベトナム戦争時代の普天間飛行場の周囲が危険であるのは見え見えであった。それなのに普天間飛行場の隣に大学を創るなんてキチガイ沙汰である。

 危険な場所になぜ沖国大をつくったのか。

 あの頃、沖国大のある場所は辺鄙な場所であり住宅はほとんどなく土地が安かった。沖国大の経営者たちは大学の創設費用を安くするために普天間飛行場の隣を選んだのである。沖国大を創設した人間たちは創設費用を安くすることだけに関心があり学生の安全には関心がなかったということだ。

 沖国大の創設を許可したのは宜野湾市の市長や議員である。米軍ではない。米軍は危険な場所に大学をつくるのに反対だったはずである。米国では米軍飛行場の隣に大学をつくるなんて絶対に許可しないはずだ。人権を重視する米国ではあり得ないことが沖縄では起こったのである。米軍は「オー、ノー」と頭を抱えただろう。

 なぜ、宜野湾市の市長や議員は危険な普天間飛行場の隣に沖国大を創設するのを許可したのか。それは大学ができれば人口が増え税金収入が増える。市長や議員は人口が増え宜野湾の経済が発展するのを最優先したのである。彼らは学生の人命の危険性には全然関心がなかった。小学生の人権にさえ関心のない彼らは普天間飛行場の隣に普天間第二小学校をつくった。1969年のことである。沖国大ができる二年前である。

 沖国大が普天間飛行場の隣にあるのは沖国大の経営者や宜野湾市の市長、議員の責任であり、彼らが学生の人権を無視したからである。米軍には全然責任がない。

 そんなことを知らない19歳の学生代表の真喜志綾乃さんは「平穏な日々を過ごしたい。私たちの願いはそれだけです」などと意見を言う。
 沖国大は普天間飛行場が今より数十倍も危険なベトナム戦争中に普天間飛行場の隣につくったのである。創設当時に比べれば現在のほうが平穏である。もっと平穏を望むのであれば沖国大を引っ越したほうがいい。
 危険である普天間飛行場の隣に勝手に大学をつくって、普天間飛行場が危険だから撤去・閉鎖しろというのはあまりにもわがままな言い分である。

 普天間飛行場は共産党一党独裁国家中国や北朝鮮の侵略を抑止しアジアの民主主義国家の安全と平和を維持するために存在している。小市民の小さな欲望を実現するための沖国大とは存在価値が桁違いである。
 アジアの民主主義の安全と平和をちっとも考えないで、自分のちっぽけな小市民的欲望にこだわる人間たちに普天間飛行場の閉鎖・撤去を主張する権利はない。
 
 普天間飛行場と沖国大では存在価値が数百倍も違う。
 普天間飛行場が危険だというのなら、普天間飛行場の隣に自分勝手につくった沖国大のほうが移転するべきである。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
« 慰安婦少女像... なぜ、戦争が... »
 
コメント
 
 
 
unkown (unkown)
2013-08-15 13:53:26
更に基地の近くには小学校がありますけど、何か?
神社もありますけど地域開発の裏側にどれだか国が関わっているか全くご理解がないのですね。
普天間飛行場への米軍ヘリポートが移設されたのは
確か沖国大が建設された後ですよ。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。