女工の悲惨な実態を書かない沖縄







「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

ブログ・光と影  古代ヒロシ

那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

じんじんのブログ  じんじん

米統治により、
沖縄は近代化されたことを忘れてはダメ   九三
                        
ブログ・沖縄に内なる民主主義はあるか
                     又吉康隆

二年連続教え子へのわいせつ行為ができる島・沖縄 九五


短編小説  又吉康隆
港町のスナックはてんやわんや  九九


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女工の悲惨な実態を書かない沖縄



 戦争の根本原因は領土拡大にあることを説明するために日清・日露戦争を調べていたら、四民平等→徴兵制度→日清戦争→日露戦争の後に「チルーの方言札」で書いてある「本部事件」があったことを知り、本土と沖縄の近代化の大きなずれを感じたので沖縄の徴兵忌避について書いた。
「チルーの方言札」は二十日に「千鶴子強いられた名前」二十一日に「出稼ぎ先『琉球人』差別」について書いている。見過ごすことができないので批判する。

「千鶴子強いられた名前」ではチルーが無理やり千鶴子という名前に変えさせられたことを書いている。

「なーめいめい、名前けーりわる やんり いーしが(各人、名前を変えろということだが)」。同名が複数おり、会社が命令した。皆抵抗したが、姉さん格の部屋長が説得、鶴枝、鶴美、鶴子などと決め、チルーは千鶴子になった。
                   「チルーの方言札」

沖縄の農民の女性の名前はカマドゥ(カマド)、ナビー(ナベ)、ウシ、カメ、チルーと同じ名前が多く名前の種類が少ない。それにカマド、ナベは道具でありウシは家畜、カメ、チルーは動物である。戦前の女性の名前で一番多い名前がウシである。琉球王朝時代の農民の女性は家畜か道具並みの存在であったからそのような名前をつけられたのだ。明治以後も琉球王朝時代の思想が根強い沖縄ではウシやカマドゥなどの名前が多かった。

私の母はカマドゥという名前だったが、南方の戦場から帰ってきた父がヒデに改名したそうだ。カマドゥとはカマドのことであることが日本兵に笑われたそうだ。だから改名したらしい。なぜ、日本兵はカマドという名前を笑ったのか。人間である女性の名前がご飯を炊くカマドだったからである。

明治維新以後日本の近代化はどんどん進んだ。それは国家の仕組みや経済だけでなく思想も発展していった。大正デモクラシーと呼ばれるように大正時代には民主主義・自由主義の意識が高まっていった。

大正デモクラシー
 政治面では普通選挙制度や言論・集会・結社の自由に基礎をおく議会中心政治,外交面では武断的な侵略や植民地支配の停止,社会面では団結権,ストライキ権など社会権の承認,半封建的地主小作関係の廃絶,被差別民の解放,男女同権,文化面では国家主義に対抗する自由教育,大学の自治,美術団体の文部省支配からの独立等々,さまざまの課題を掲げた自主的集団による運動が展開され,民主主義へ,自由主義への時代思潮をつくりだした。

 女性の人権の向上を主張する運動も起こった。まだまだ男尊女卑の思想が根強かった日本であったが女性が人間であることは認め家畜や道具並みに見ることはなかった。江戸時代でさえ女性の地位は家畜や道具よりは上だった。だから日本兵はカマドという名前が滑稽に思えただろう。

 小学生の時、不思議なことに気が付いた。夜、母は私が起きている間はずっと起きていた。ところが朝起きるとすでに母は起きて台所にいた。私は母が寝ている姿を見たことがなかった。私は母より早く起きて母が寝ている姿を見ようとしたが、私が早く起きてもすでに母は起きていた。母は寝ていないのだろうかと不思議に思った。母のことを思い出すと沖縄の女性は牛馬のように働いていたんだなあとしみじみと思う。

 ムヌカチャーの知念ウシさんは少数民族沖縄が差別されていることを問題にしている。しかし、少数民族沖縄内の女性差別は無視している。彼女が民主主義思想家ではないことはウシという名前が女性差別であることを知らないことから分かる。知念ウシさんだけでなく少数民族の差別を訴え、沖縄独立を主張している連中には民主主義思想がない。


 江戸時代は藩がそれぞれ独立国家であり藩ごとに関所があり日本国内を自由に行き来することはできなかった。明治になり廃藩置県をすることによって国中を自由に行き来することができた。沖縄の人も本土を自由に行き来できるようになった。

 チルーは本土の紡績工場に出稼ぎに行くが、これは廃藩置県と政府が産業開発に力を入れて紡績工場を造ったから実現した。沖縄は農業中心で産業と言えば製糖だけであった。昭和の初めの頃には砂糖の暴落で沖縄の農家の収入は激減し、ソテツ地獄に陥った。

■「ソテツ地獄」と県民の暮らし

 日露戦争後の不況にあえいでいた日本は、一九一四(大正三)年に勃発した第一次世界大戦によって一時撤退したヨーロッパ列強にかわって、アジア市場を独占することになりました。軍需品や鉱産物、薬品関係などの大量輸出によって景気は回復し、日本の工業の発達をもうながしました。沖縄もこの大戦景気の恩恵を受け、特産物の砂糖で利益をあげる「砂糖成金」が生まれるほどでした。

 しかし、この大戦景気は長続きしませんでした。第一次大戦が終わって西欧勢力が再びアジア市場に進出してくると、日本の輸出は急速に減少し、国内では過剰生産によるいわゆる戦後恐慌におちいりました。砂糖の価格は下落し、深刻な不況の波が押し寄せてきました。
さらに、一九二三(大正一二)年におこった関東大震災や、一九二九(昭和四)年におこった世界恐慌により、「昭和恐慌」とよばれる慢性的な不況が日本をはじめ沖縄の人々の生活を襲いました。

 大正末期から昭和初期にかけておこった恐慌は、沖縄では「ソテツ地獄」とよんでいます。当時の沖縄の人口の7割が暮していた農村部では、極度の不況のため米はおろか芋さえも口にできず、多くの農民が野生の蘇鉄(そてつ)を食糧にしました。毒性を持つ蘇鉄(そてつ)は、調理法をあやまると死の危険性があるにもかかわらず、その実や幹で飢えをしのぐほかないほど、農村は疲弊しきっていたのです。
 しかし、このような県民の貧窮にもかかわらず国税は徴収され、さらに台風や干ばつなどが追い打ちをかけたため、県民の暮らしは文字通り地獄の様相を呈していました。農家では身売りが公然とおこなわれ、さらには海外への移民や本土への出稼ぎが増えていきました。
                        「近代沖縄」

 チルーが紡績工場に就職したのは一九三〇年代後半だという。就職した理由は「いつまでも親元だとふんでー(甘えん坊)だと言われるし、イジをだすため」に大阪の錦華紡績に就職したというが、その説明は嘘である。そんな悠長な理由から就職したのではない。貧困が理由で就職したのだ。「チルーの方言札」からは沖縄の貧困は伝わってこない。

 戦前の沖縄はソテツ地獄に見舞われたように貧困の極みだった。女性が働くところは金持ちの家の女中か遊郭くらいであり、貧しい農家の男の子は糸満売りされた。日本の法律で人身売買は禁じられていたが戦前の沖縄では公然と人身売買が行われていた。

 チルーが謝花尋常小学校高等科へ進んだ時、五学級が一つ減った。出稼ぎに行く子がいたためだ。家族から出稼ぎに行ったのは八歳上の長女姉。「姉さんはいじじゅうさん(意地が強い)。人の二倍働き、半分は貯金、半分は家へ仕送りした」。それで土地を買い、農耕用の馬も買った。契約を終え帰郷した姉は見違える和服姿。柳ごおりには嫁入り準備の着物や服が詰まっていた。父母の喜ぶ様、美しい姉の姿。チルーの胸は高鳴った。
                   「チルーの方言札」

 小学校の高等科の生徒の年齢ば十歳そこそこである。戦前はそういう子が出稼ぎに行く時代であり、紡績で働いた娘の仕送りで土地を買い、馬も買えた時代である。沖縄の農民の貧しさが想像できる。
そうであるなら、本土就職のありがたさを書いてもいいのだが、「チルーの方言札」は沖縄差別を強調する。

 沖縄の女工募集は一九〇六年頃から本格化するが、標準語や文化の違いで苦労した。「リューキュー、イモクイ、ブタ」と怒鳴られた(『名護市史・出稼ぎと移民』)
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 今でも嫌だったと思いだす出来事がある。本土出身がチルーの顔を見つめ「あんた沖縄ってねえ。自分たちと同じで変わらないね」と言い放った。「やー、くにひゃーや(なんだ、この野郎)」。心中では怒りが渦巻いたが、出てきたのは「どうして」という一言だった。
                      チルーの方言札
 出稼ぎ先で「琉球人」差別されたことは沖縄では定説となっている。しかし、冷静になって考えると差別問題は微妙な感情問題でもあり、すべてを「琉球人差別」とはいえない。私たち沖縄自身の問題も多く含まれている。

 沖縄の女工が差別された大きな原因は共通語を使えなかったことである。「チルーの方言札」は共通語を使えなかった沖縄の少女たちを擁護しているがそれは間違っている。共通語を使えなかったことを批判するべきだ。本土で働くのなら共通語を覚えるのは当然だ。共通語を使えなくて叱られたことを差別されたと感じるのはむしろ傲慢である。甘えである。

「郷に入らば郷に従え」ということわざがある。本土に就職するのなら共通語とマナーをマスターするのは必須である。差別されたのは共通語やマナーをマスターしていなかった少女たちに非がある。しかし、これは少女たちの責任ではない。沖縄の政治家の責任だ。沖縄の方言が本土の人間には全然分からないことは政治家なら誰でも知っていたはずである。また、沖縄は貧しく本土就職する少年少女が多いことも知っていた。ならば本土での就職をうまくやっていくために共通語・マナー教育を徹底してやるべきであった。共通語・マナーの授業を設けるべきであった。方言札はむしろ生ぬるかった。「郷に入らば郷に従え」ということわざが沖縄にはなかったようだ。

 なぜ、沖縄の政治は少年少女の本土就職対策をしなかったか。それには原因がある。明治時代は中央集権制度であり沖縄県の知事は政府が派遣した。政府から派遣された知事は中央政府の意思を沖縄に広めるのが役目だった。一方琉球王朝時代と変わらない思想の地方社会では琉球王朝時代からの有力者が首長になっていた。だから、首長は封建社会のように村を支配する政治を行っていた。少年少女が本土就職で生じる障害を解決することに関心はなかっただろう。

 琉球人差別は沖縄の政治家の怠慢が原因であったと言える。今だからそんなことが言えるのだと思うかもしれないが、「チルーの方言札」を執筆した謝花直美記者や出稼ぎ・移民研究家の大城道子さんは現在の人間だが、女工たちの被害を琉球人差別と決めつけている。沖縄政治の怠慢を琉球差別に転換している。

 一九二六年に、沖縄の女工が、食堂で他県出身の女工に誤ってお湯をかけたが「ごめんなさい」という言葉が分からずだまっていた。「謝れ」と言われたが、反応できずにいたため、相手に「琉球人のバカ」となじられ、喧嘩になった。他に「琉球人のイモクイ」「琉球人のブタ」とあざけられることもあった。
                  「チルーの方言札」

 沖縄出身の女工は「ごめんなさい」さえ言えなかったのである。それでは怒られて当然である。まてよ。沖縄の方言に「ごめんなさい」があっただろうか。私は「ごめん」という言葉しか知らない。「ごめん」と同じ意味の沖縄方言を知らない。

 謝る言葉に「ぐぶりーさびたん」というのがあるがこれは「ご無礼をしました」の意味だ。「わんが わっさいびーたん」は「私が悪かった」の意味である。「ごめん」が沖縄方言ではないとしたら、「ごめん」と同じ意味の言葉が沖縄方言にはないのかもしれない。誤ってお湯をかけた場面では、「あいえー」と驚いた声を出してから、「ちゃーんねーらに(大丈夫か)」と相手を心配する場面しか私は思い浮かばない。「ごめんなさい」に匹敵する沖縄方言が思い浮かばない。もしかすると沖縄方言には「ごめんなさい」がないかも知れない。

 そういうことも含めて女工たちには共通語やマナーを教えるべきであった
本土に就職した女工たちのトラブルをなくすことができるのは沖縄の政治家である。しかし、政治家はトラブルが起きないための教育システムをつくらなかった。

 義務教育を終えても子供たちの職場がない。親は農業でいいと思うが、子どもは自己表現をしたいと思い、大和の先生を見て憧れた。そこに紡績の募集があり、現金をもうけ、親に仕送りもできた。
                     「チルーの方言札」

 この説明も嘘である。親が那覇港で本土に行くわが子を見送るときの有名な言葉がある。
「手紙はしむぐとぅ じんから先にうくりよう(手紙はいいからお金から先におくれよ)」
である。貧しいがゆえの言葉であり、決して親は農業だけでいいとは思っていなかった。親は生活が貧しいから娘を紡績工場に就職させたのである。

女工節
補作詞 我如古 盛栄

一 親元ゆ離り大和旅行ちゅし
  淋しさやあてぃん 勤みでむぬよ

○親元を離れ本土に行くこと 寂しさはあっても務めであるからよ。

二 友と別れたし島の村はじし 
  親とわかれたし那覇の港よ

○友と別れたのは故郷の村はずれ 親と別れたのは那覇の港よ

三 那覇までや我島 船乗りば大和 
  何時が銭儲けて我島帰ゆらど

○那覇までは私の故郷 船に乗れば本土 いつになったらお金を稼いで私の故郷に帰るだろうか

四 大和かい来りば 友一人居らん 
  桜木にかかてぃ我んや泣ちゅさ

○本土に来ると友達は一人も居ない。桜の木に(寄り)かかって私は泣くよ

五 照る月に向かてぃ 眺みゆる空や 
  島ぬ面影ぬ勝てぃ立つさ

○照る月に向かって眺める空に 故郷の面影が強く思い出されるよ

六 ガラス窓開きてぃ 歌小あびたしが 
  聞かりゆみアンマ 我身ぬ歌声よ

○ガラス窓を開けて歌を歌ったけれど 聞こえたかしら?お母さん 私の歌声が


七 紡績やアンマ 楽んでぃる来ゃしが 
  楽や又あらん 哀りどアンマ

○紡績は、お母さん 楽だと聞いて来たけれど 楽では又ない 辛いんだよ お母さん

 我如古より子さんが女工の心を切々と歌っている女工節の歌詞である。私の大好きな歌であり、カラオケでいつも歌っている。

 貧しいがゆえに家の生活を支えるために少女は遠い知らない土地に働きに行かなければならなかった。不安、寂しさ、仕事のきつさが女工の運命だった。「親は農業でいいと思うが、子どもは自己表現をしたいと思い」女工になったというのは嘘である。十五、六の少女がどうして遠い知らない土地に行きたいと思うのか。女工は先生になれない。金持ちしか先生になれないことは少女たちも知っていただろう。貧しいゆえに女工になることがどうして自己表現になるのか。女工の現実を無視した説明である。女工の多くが肺結核になったが肺結核になると即工場を首になった。肺結核は不治の病であり家に帰った女工は数年後に死んだ。

 小学六年生の時、先生が女工の話をした。先生が子供の時、隣のお姉さんが紡績工場に就職した。五、六年後に家に帰ってきたお姉さんは肌が透きとおるように白く、とても美人になっていた。お姉さんの膚が透きとおっていたのは肺結核が原因であった。数年後にお姉さんは死んだという。

 沖縄の貧困、低賃金、厳しい労働、肺結核、死が女工の現実である。
沖縄方言を重んじ、「琉球人差別」を主張する大城道子さんや謝花直美記者は女工の悲惨な実態や沖縄の貧困を隠している。沖縄を客観的に見つめていない。
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