なぜ、戦争が起きるのか





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なぜ、戦争が起きるのか


 私は一九四八年生まれである。子供の頃は電気がないランプの時代もあった。市販しているガラスのランプは一個だけで。小部屋などで使うランプは鯖かんづめの缶に布を通した手製のランプを使っていた。電気が通ったのは小学低学年の頃だった。米軍から払い下げた発電機を利用した発電会社ができて、大湾や比謝に配電していた。
 テレビのない時代であったから私たち少年は日が暮れるまで外で遊んでいた。鬼ごっこ、缶けり、かくれんぼ、グーチョキパー、ちゃんばらごっこなどなどいろんな遊びをやった。

 公民館に砂場とすべり台とブランコができたので私たちは砂場で幅跳びや相撲をやった。相撲に飽きるとムートーという相手が降参するまで攻める打撃なしの総合格闘技のような遊びをやった。
遊び疲れると月の下で輪になって色々な話し合いをするのが常だった。戦争の話もよくやった。戦艦大和が沖縄にやってきていたら沖縄は戦争に勝っていたとか、ゼロ戦とグラマンはどちらが強かったかとか、大人や雑誌などから仕入れてきた戦争話をいろいろ話した。

 戦争の話は最後に第三次世界大戦の話になっていった。第一次世界大戦第二次世界大戦が起こったのだから第三次世界大戦は必ず起こるだろうという考えだった。西平という一切年上の少年は世界大戦は二十年ごとに起こっているから第三次世界大戦も十年以内に起こると断言していた。
 第三次世界大戦は核戦争になり人類が滅亡する戦争と言われていた。核爆弾に詳しい少年がいて、私たちは彼から核爆弾がどんなものか教わった。彼の話によると核爆弾一個で沖縄は消滅するらしい。あの頃の私たちは原子爆弾と呼んでいた。原子爆弾より威力がある水素爆弾も開発されていると彼は話した。
 原子爆弾一個で沖縄が消滅するのは信じることができなかったが、原子爆弾は広島や長崎に落ちて広島や長崎は壊滅状態になったという話を聞けば信じないわけにはいかなかった。

 地球が滅亡するという第三次世界大戦の会話の最後には「明日、第三次世界大戦が始まったら、死ぬ前になにをやりたいか」という話になった。「最後の晩餐」である。他の子供たちが何を話したか覚えていないし、私が何を話したかも覚えていないが、頭の中で考えたことは覚えている。公民館の広場の隣にはトミおばあさんの小さな駄菓子屋があった。もし、第三次世界大戦が起こり確実に死ぬことになったら私はトミおばあさんの駄菓子屋に入り、お菓子を強奪しようと考えていた。子供の私の夢はお菓子を腹一杯食べることであり、トミおばあさんなら年寄りだから子供の私でもお菓子を強奪できるだろうと思った。

 強奪することは悪いことである。トミおばあさんの駄菓子屋からお菓子を強奪することを考えていることを話したら周りの子ども達から非難されるだろうと考えたから私は話さなかった。
 あの時代、多くの子供たちは第三次世界大戦や核爆弾について話しあっただろうか。それともそんな話は私たちだけだったのだろうか。それはわからない。ただ、私たちは第三次世界大戦や核爆弾について興味を持たざるを得ない環境にあった。

 私が住んでいる所は読谷村の比謝というところであったが、比謝は嘉手納町に近く嘉手納飛行場が見えたし、比謝の東側には嘉手納弾薬庫があった。

 国道五十八号線を北進し嘉手納町を過ぎて読谷村に入った時、五十八号線の西側には比謝橋、大湾、比謝の密集した住宅が連なっているが、東側は建物がひとつもない。畑と野原だけである。建物がないのは軍用地だからである。畑の向こうに頂上が東北にかけて横長になっている低い山が見えるが、その山の頂上からふもとまでが嘉手納弾薬庫で陸海空の米軍が使用する爆弾を貯蔵している。嘉手納弾薬庫は嘉手納飛行場の四倍も大きい。

 嘉手納弾薬庫は安全のために弾薬庫から数キロ離れた広い範囲を人が住まないように軍用地にしている。広い軍用地は米軍が使用することはないので設備を一切造らない条件で地主が畑にすることを黙認している。それを黙認耕作地という。
広い嘉手納弾薬庫には広場、山、川の自然があり、ギーマ、クービー、ベンシルー、マチバルパンクー、ヤマモモなどの木の実があり、私たちは木の実を食べたり、川で泳いだり魚や川ガニを取って食べたりして遊んだ。朝から出かけ昼食は自然の恵みを食して夕方まで遊んだ。

 軍用地は私たちの最高の遊び場たった。だが、山奥のほうに入っていくと突然大きな爆弾が山のように積まれている広場に出るときもあった。広場にはカービン銃を肩に掛けた看視員がいて私たちを追い払った。嘉手納弾薬庫には核爆弾が貯蔵されているという噂があったが、山積みした爆弾を見た私たちは噂の核爆弾もあるだろう思っていた。残波岬には大きいミサイルが中国に向かって立っていた。そのような環境にあったから私たちは第三次世界大戦は起こるかも知れないと思っていた。子供の私には核戦争は絵空事ではなかった。

 第三次世界大戦が始まるかも知れない事態が起こった。キューバ危機である。キューバ危機が起こったのは一九六二年である。私が中学一年生の時だ。第二次世界大戦が起こってから約二十年が経っていた。二十年周期で世界大戦が起こるならキューバ危機が第三次世界大戦発展する可能性は高かった。

 キューバ危機の原因はキューバにソ連の核ミサイルが持ち込まれたことが原因であった。ケネディ大統領は全米テレビ演説で国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、ソ連を非難した。私の家にはテレビがなかったのでラジオからキューバ危機のニュースを聞いた。

 ラジオではケネディ大統領が海上封鎖したことや、核ミサイルを積んでいるかもしれないソ連の船がキューバに向かっていることを放送した。ラジオでも戦争になるかも知れないと緊迫した放送をした。キューバ上空を飛んでいた偵察機がミサイルで撃墜された時、私はアメリカとソ連は戦争になると思った。

 ソ連とアメリカが戦争をすれば第三次世界大戦になる。アメリカ軍基地のある沖縄は真っ先に核ミサイルを撃ち込まれて一瞬の内に消滅してしまうだろう。沖縄の住民はみんな死ぬ。私はそれを恐れていたから、戦争にならないことを祈りながらラジオニュースを聞いた。
 幸いなことにキューバ危機は回避された。私はほっとした。

 キューバ危機は、一九六二年十月十四日から二十八日までの十四日間だった。たった二週間だったから、キューバ危機は本当はそんなに緊迫はしていなかっただろう、ラジオが大げさに放送したのだろうと私は思うようになった。あなたはキューバ危機を知っていますか。知っていたとしてもたった二週間の出来事であったし、多分あなたも私と同じように「核戦争危機」というほどのものではなかっただろうと考えていると思う。しかし、事実はそうではなかった。

 数年前にNHKでキューバ危機のドキュメントの放送を見たが、キューバ危機は本当に核戦争寸前までいっていた。核戦争に向かわざるをえない状況に追い込まれながらなんとか戦争になるのを回避しようとするケネディ大統領とフルシチョフ首相の苦悩は極限までいっていた。ケネディ大統領は弟のロバート司法長官に戦争が起こった時の犠牲者の数を試算させたという。

 アメリカ軍部隊の警戒態勢は、二十二日の大統領演説中にデフコン3となった。二十六日午後十時にはデフコン2となり準戦時体制が敷かれた。

デフコン 5  平時における防衛準備状態を示す。準備状態の上昇は統合参謀本部が実行し、国防長官が宣言する。
デフコン 4  情報収集の強化と警戒態勢の上昇を意味する。冷戦時に、大陸間弾道ミサイル部隊のデフコンはほとんどこ       のレベルだった。
デフコン 3  通常より高度な防衛準備状態を示す。アメリカ軍の使用する無線は機密コールサインに変更される。二〇〇       一年九月十一日の同時多発テロの際にも宣言された。
デフコン 2 最高度に準じる防衛準備状態を示す。キューバ危機の際に一度だけ宣言されたことがある。一九六二年一〇月       二十三日に宣言され、戦略航空軍団はB‐52爆撃機の一部を空中待機、残りのB‐52とB‐47は滑走       路待機となった。これは戦略航空軍団については、十一月十五日まで継続された。
デフコン 1 最高度の準備を示す。今までに用いられたかどうかは定かではないが、アメリカ軍やアメリカ領土に対する外      国軍による切迫した、または進行中の攻撃のために予約されている。核兵器の使用が許可されることもある。

 ケネディ大統領はソ連との全面戦争に備えアメリカ国内のアトラスやタイタン、ソー、ジュピターといった核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射準備態勢に置いた他、日本やトルコ、イギリスなどに駐留する基地を臨戦態勢に置いた。核爆弾を搭載したB‐52戦略爆撃機やポラリス戦略ミサイル原子力潜水艦がソ連国境近くまで進出し戦争に備えた。また、ソ連も国内のR-7やキューバのR‐12を発射準備に入れた。

 デフコン2の発令を受けて「全面核戦争」の可能性をアメリカ中のマスコミが報じたことを受け、アメリカ国民の多くがスーパーマーケットなどで水や食料などを買いに殺到する事態が起きた。

 キューバ危機が起こった時、ケネディ大統領は核攻撃の際にはキャサリン夫人と子どもたちをワシントンD.Cから離れたシェルターに避難させるという計画を立てたがジャッキー夫人は、
「もし何かが起きたとしても、私をどこかへ送らないで。私たちはみんなここで、あなたと一緒にいる。私はあなたと一緒に死にたい、子どもたちもそうよ──あなたなしで生きるくらいなら」
と反対したという。
 キューバ危機はジャッキー夫人が死を覚悟するほど非常に緊迫した状況になっていたことが理解できる。

キューバ危機は核戦争に発展しなかったが、中学生の私はキューバ危機を体験して以来近い将来核戦争が起こるかもしれないと心配するようになった。
 マンガ好きの私は月刊雑誌少年画報を毎月買っていた。少年画報の後ろの方には毎月短編小説が掲載されていたが、第三次世界大戦が起こったという想定で書かれた小説が載ったことがある。核戦争が起こり、核シェルターに入って生き延びた人々が地上に出てみると、地上は草木ひとつない廃墟の世界であるというところで終わっていた。私は廃墟の世界で生き続けるほうがいいのかどうか悩んだ。悩んだ末に私は廃墟の世界で生きても虚しいだけだから死んだほうかいいと結論した。

 私は中学三年生の時の校内弁論大会で第三次世界大戦が起こり、核戦争になったら私は生きるより死を選ぶと発表した。作り話だとあなたは思うだろうが本当のことである。教師も生徒もマンガの読みすぎで頭がおかしくなったのだろうと苦笑しただろうが、第三次世界大戦・核戦争がトラウマになっていた私は真剣だった。

 第三次世界大戦がトラウマなった私は高校生になるとなぜ大人は戦争をするのかを考えるようになった。
 戦国時代の映画では、天下を統一して平和な国にするために戦争をするのだと主人公は言っていたが私は半信半疑だった。
 日本史にしろ世界史にしろ歴史は戦争の連続だ。なぜ、戦争が起きるのか。なぜ戦争をするのか。民族と民族の対立による戦争。宗教の違いによる戦争。征服の欲望者による戦争などなど、戦争の原因は色々あるように言われているが、戦争の根本的な原因はなんなのか。高校生の時、戦争の原因を追究したが原因を明らかにすることはできなかった。
 
私のように戦争がなぜ起こるかを考えた少年は多かったのでないだろうかう。
 戦争の根本的な原因は領土拡大にあると確信が持てたのは三十代になってからである。領土争いではなく領土拡大である。
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