日本の近代化に遅れた沖縄の農民







「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

ブログ・光と影  古代ヒロシ

那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

じんじんのブログ  じんじん

米統治により、
沖縄は近代化されたことを忘れてはダメ   九三
                        
ブログ・沖縄に内なる民主主義はあるか
                     又吉康隆

二年連続教え子へのわいせつ行為ができる島・沖縄 九五


短編小説  又吉康隆
港町のスナックはてんやわんや  九九


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日本の近代化に遅れた沖縄の農民



「チルーぬ方言札」の2は「徴兵検査物扱いに激怒」の見出しで、本土からやってきた検査官が沖縄の人間を物扱いにし、それに反発した村人が反抗した「本部事件」について書いている。「本部事件」を最初に取り上げたのが元沖縄タイムス社長の新川明氏であった。

今年は「本部事件」から100年となる。
戦前に多くの徴兵忌避者を出した本部村で一九一〇(明治四三)年五月一八日、徴兵検査で徴兵忌避の疑いのある一人の青年に対してなされた官吏の行為に怒った村民が、検査場に乱入して暴行を加え、機器を破壊する事件が発生した。いわゆる「本部騒動」「桃原事件」などと呼ばれている徴兵検査をめぐるこの事件で、本部村の住民二三人(二人は無罪)が騒乱罪に問われた。

最近では資料も出てきているが、当時の新聞資料しかないなかで、この本部事件の全体を紹介し、近代史に徴兵忌避をめぐる事件として位置づけたのは新川明である。いま読んでもすごいと思う。写真は陸軍省の堀の報告書「沖縄徴兵検査ノ際村民不穏ノ挙アリタル件」の表紙。提出は事件の翌日五月一九日となっている。

新川は復帰前の新聞連載の中で、戦前の新聞資料を使いながら、事件やその後の県による本部村抑圧の動きなどを当時の社会状況を踏まえながら、沖縄近代史の「叛骨の系譜」に位置づけた。新川は事件の背後に官憲の挑発があったのではないか、と推測している。そして、「当時の沖縄社会には、何らかのきっかけさえあれば『本部事件』のような事態を誘発させる基盤は、民衆の徴兵に対する反感と厭悪として一般化し、広く民衆のなかで共有されていた」と書いている。(新川明『琉球処分以後』上、二一一頁)
海邦小国

 新川明氏が『本部事件』を取り上げた理由は、日本政府の徴兵制度に反発して徴兵忌避をした沖縄の人々には日本の抑圧への反骨の精神があったことを主張するためである。民衆の徴兵に対する反感と嫌悪は反戦平和思想に繋がることを新川氏は強調したいのだ。しかし、それは新川氏の歴史事実を無視した我田引水である。「本部事件」が起こったのは明治四三(一九一〇年)である。その頃にはすでに日本は近代化へ大きく前進していた。

明治元年(一八六八年)
明治四年(一八七一年)四民平等・・・士族の公務を解いて農業・工業・商業の自由を与え、また平民も等しく公務に就任できることとした。
明治五年(一八七二年)徴兵制度を採用・・・国民皆兵となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。
明治二七年(一八九四年)日清戦争
明治三七年(一九〇四年)日露戦争

日清戦争、日露戦争に勝利した日本は世界から一人前の国として認められるようになった。東洋の国で世界から認められたのは日本が最初である。

大陸の列強と戦争をして勝利し大陸進出を目指している日本政府からみれば南の小さな沖縄県の北部の小さな村で起こった「本部事件」は些細なことでしかない。蚊に刺されたくらいのむず痒ささえ感じなかっただろう。「何らかのきっかけさえあれば『本部事件』のような事態を誘発させる基盤は、民衆の徴兵に対する反感と厭悪として一般化し、広く民衆のなかで共有されていた」という認識は、新川氏が沖縄は日本、世界から見ればとても小さい存在であるということを自覚できないで沖縄は日本と対等な実力を秘めていると妄想しているからである。

新川氏は、沖縄の徴兵忌避は日本がどんどん近代化していく流れの中で取り残された人々の行動であったことを知らないで、現代の反戦運動と無理やり結びつけようとしている。徴兵忌避=反戦・厭戦ではない。そう思っているのならとんでもない勘違いである。

明治政府は明治四年に士農工商制度を廃止して四民平等にした。市民平等にしたから兵士専門である武士階級が解体し、国民皆が兵士になることになり徴兵制度ができた。豊臣秀吉が刀狩りをやって農民から武器を奪ったように封建社会では農民の反乱を恐れて農民には武器を持たさなかった。江戸時代になると士農工商制度になり、農民は生まれた時から死ぬまで農民だった。農民が武士になることはできなかった。

しかし、明治政府になると四民平等になり、国民すべてが兵士になれるようにした。徴兵制度は市民平等から生まれた日本の近代化の象徴である。日清戦争の時の清国と日露戦争の時のロシアは封建社会国家であった。二つの大戦は近代国家と封建社会国家の戦争でもあった。清国、ロシアの武士階級の軍隊と日本の平民による軍隊との戦争は小国でありながら日本が勝利した。それは封建国家に対する近代国家の勝利であった。

沖縄の徴兵忌避は戦争をするのは武士階級であり、農民は農業だけをやるものであるという封建思想が原因である。彼らには四民平等の思想がなかったから徴兵忌避をしたのである。

「チルーの方言札」では徴兵検査で物扱いにされたから農民が激怒したと述べているが、「物」扱いをされたという意識は「人間」であるという意識がなければならない。人間なのに人間扱いをされていないという意識から「物」扱いをされたという意識が生じてくる。四民平等さえ理解していない桃原の農民たちに人権意識があったとは考えられない。「物」扱いをされたという意識は彼らにはなかった。

「がってぃんならん。うんなまでぃ、うちなー うしぇーるばーい(許せない。こんなに沖縄をばかにするのか)」
本土の人間に馬鹿にされたということが原因で怒ったのであって人間として物扱いされたという人権意識から怒ったのではない。

本当に桃原農民がそんなことを言ったのか疑問である。「がってぃんならん」は最近よく使われていて流行している言葉である。現在流行しているから使っているのではないだろうか。桃原の農民が沖縄全体を意味する「うちなー」という言葉を使っただろうか。「わったーどぅ(俺たちを) うしぇーるばーい」とか「とーぱるんちゅー(とーばるの人間を) うしぇーるばーい」なら自然に口から出ると思うが「うちなー」は出てこないと思う。「沖縄を馬鹿にするな」は左系の人間たちが使う言葉であるが、彼らは自分は沖縄の代弁者である気持ちがあるから沖縄ということばを使っている。琉球王国時代の封建意識が強い農民が沖縄を代表するような「ウチナー」を口にするのはおかしい。それになぜ「りゅーちゅー」ではなくて「うちなー」なのかも疑問である。「がってぃんならん。うんなまでぃ、うちなー うしぇーるばーい」は現在の左翼の気持ちをウチナー口で書いたもので「本部事件」当時の農民の言葉とは思えない。

新川明氏は「当時の沖縄社会には、何らかのきっかけさえあれば『本部事件』のような事態を誘発させる基盤は、民衆の徴兵に対する反感と厭悪として一般化し、広く民衆のなかで共有されていた」と述べ、農民の抵抗が現在の反戦運動を内包しているように書いているが、実際は農民の古い思想による抵抗であり、日本の近代化に取り残された農民の抵抗である。このような抵抗は日本政府の政治が沖縄に浸透するにつれてなくなっていく。

一九四五年には集団自決が起きたように沖縄の民衆の意識は琉球王国時代の封建思想から軍国主義思想に変化していたのである。琉球王国時代の農民には兵士になる思想も自決する思想もなかった。餓死者が出る「ソテツ地獄」を何度も味わった農民には「命どぅ宝(生きていることが一番の宝)」「生ちかりーるえーだー 生ちけー(生きれる間はなにがなんでも生き抜け)」のようにどんなことがあっても生き抜く思想が強かった。

しかし、「本部事件」から三十五年後の一九四五年には天皇ために戦い天皇のために死ぬという思想が広まり、集団自決もやったのである。たった三十五年で沖縄の思想は大きく変わったのである。
沖縄の思想を激変させたのはなにか。それは皇民化教育である。

小学生の時に明治天皇が崩御した時に乃木将軍が自決した話や会津の白虎隊が自決した話を先生から聞いた。それは悲劇ではなく武士としての立派な行為として先生は話した。戦前ではない戦後のことである。自決とは自分の死を自分で決める武士のプライドであった。処刑する時も武士は切腹をした後に首を跳ねた。農民の処刑に切腹はなかった。

江戸時代には武士だけに許された自決が太平洋戦争の頃になると国民全員に日本人としての誇りを守るための自決が認められ、敵に殺されるより自決する思想が国民全体に広まった。この思想は日本のどこで広まったか。いうまでもなく皇民化教育をした学校である。

戦後生まれの私たちに影響を与えた戦中時代に十代だった小説家、評論家の全員が熱烈な軍国主義少年であったと述べている。そのくらい少年たちの皇民化はすごかった。沖縄も例外ではなかった。沖縄に学校が増えるにつれて皇民化教育も広まり、軍国主義人間は増えていった。

渡嘉敷と座間味の集団自決に軍命令はなかったと主張したドキュメンタリー作家の上原稔念氏が、軍命令はあったと主張した琉球新報社に裁判で勝利した。新報社か最高裁への上告をあきらめたほどの完全勝利だった。渡嘉敷と座間味の集団自決に軍命令はなかったことを裁判所か承認したのだ。

軍命令はなかったのに村の人たちは集団自決をした。彼らが集団自決をする思想を持つようになっのは皇民化教育にあった。皇民化教育以外にもいくつか原因はあるが、最大原因は皇民化教育にあった。皇民化教育をやったのは沖縄の教員たちである。日本軍ではなく、沖縄の教員こそが集団自決をさせた犯人であったのだ。
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